半券の灰、センサーの朝靄
──平成0x29A年06月15日 06:00
六月の朝は湿気が重い。
防塵マスクを顎まで下ろして、あたしは搬入口のシャッターを手動で持ち上げた。モーターが焼けてから三週間、3Dプリントで出した代替ギアがまだ届かない。いや、届いてはいる。ただ記憶補助の更新が止まっていて、届いた部品の保管場所をあたし自身が思い出せないのだ。
「Cラック、下から二段目」
右耳の奥で声がした。兄さん——戸部拓真、享年二十六。バイク事故。三年前に人格移植されて以来、あたしの近親エージェントをやっている。生前より少しだけ丁寧になった口調が、たまに気に障る。
「……ありがと」
Cラックを探ると、油紙に包まれた3Dプリント部品があった。ABS樹脂の匂いが鼻をつく。形状はシャッター用の平歯ギア。寸法は合いそうだ。
あたしの職場は第8リサイクルブロックの末端にある「雑品仕分けステーション」。市民生活から吐き出された紙類、小型電子基板、衣類残渣。それを手とセンサーダストで仕分ける。センサーダストを紙片に振りかけると、素材の組成が色で浮かび上がる仕組みだ。藍ならセルロース、橙なら樹脂コート、赤は金属含有。粉自体は使い捨てで、朝の光の中で埃みたいにきらきら舞う。
今朝の仕分けカゴにはチケットの半券が大量に混じっていた。「第17娯楽ブロック 夏フェス'06」と印字されたものが何十枚も。06年? 平成06年だか2006年だか、そのあたりの区別はもう誰もつけない。半券の裏にはバーコードとQRコードが共存していて、どっちが本物のチケット情報なのかも不明だった。
センサーダストを振る。藍。純粋な紙。リサイクル可。
あたしは半券をセルロース回収トレイに放り込みながら、ふと手が止まった。一枚だけ、裏面にボールペンで電話番号が書いてある。090から始まる十一桁。
「記憶補助、この番号に覚えある?」
沈黙。三秒ほど遅れて兄さんが答えた。
「更新が二十三日止まってる。外部照合できない。ごめん」
法定倫理検査のスケジュールが押していて、検査前の記憶補助パッチが未適用のまま放置されているらしい。あたしは自分の手帳——紙の手帳だ、百均で買った——を開いて確認した。やはり更新予定日が赤で丸してある。五月二十三日。もう三週間以上前。
「管理課に催促したほうがいい」と兄さん。
「したよ、二回。『順次対応します』って」
カゴの底からガス検針票が出てきた。使用量ゼロ立方メートル。住所は第3居住ブロックの集合住宅。誰も住んでいない部屋に届き続ける検針票。こういうものが毎朝、あたしの手元に流れてくる。
センサーダストを振る。藍に橙の斑点。部分コート紙。手で剥がして分別。
シャッターの隙間から朝日が差し込んで、舞い上がったセンサーダストが金色に光った。半券の山がほんのり藍色に染まっている。
「兄さん」
「ん?」
「倫理検査、いつ?」
「七月一日の予定。パッチはその前に来るはず」
「来なかったら?」
「……俺が覚えてればいい話だろ。紙に書いとけ、お前も」
笑った。生前の兄さんなら絶対に言わない台詞だ。バイクの鍵も財布も何もかも失くす人だった。
あたしはボールペンの番号が書かれた半券だけ、作業着の胸ポケットに入れた。リサイクル品の持ち出しは本来だめだけど、紙一枚くらい、党ドクトリンも検知しない。
搬入口の向こうで、配送ドローンのプロペラ音が近づいてくる。もしかしたらギアの追加パーツか、あるいは記憶補助の更新パッチか。
どちらでもいい。
朝の光はまだ低くて、センサーダストの粒がしばらく空中に留まっていた。落ちるまで、あと少し。