匂いの転送ルート
──平成0x29A年 日時不明
音声メモ、起動。えーと、今日は……ああ、日付か。平成0x29A年、三月十九日。俺は橋本。配送ドライバーの。
さっきね、変なことがあったんだよ。東区の集合住宅に荷物を届けてたんだけど。テレホンカード、五十枚入りの段ボール。宛先は四階の角部屋。
エレベーターが故障中で、階段を上がってたら、三階の踊り場で妙なもん見つけた。匂い再現デバイスの試供品が、郵便受けから溢れてた。ああ、あの小さい銀色の端末ね。首から下げるやつ。
「兄貴、これって」
って聞いたら、イヤホンから兄貴の声が返ってきた。亡くなって三年。橋本誠。享年三十八。元・物流システムの設計士だった。
『ああ、第0xC4A2内閣ユニットが通したばかりの試験配布政策だ。メタバース広場の感覚拡張プロジェクトの一環らしい』
兄貴のエージェントは物知りだ。俺より頭が回る。
それで四階まで上がって、ピンポン押した。出てきたのは若い女性。二十代半ばくらいか。
「テレホンカード、五十枚です」
「ああ、ありがとうございます」
サインもらって、帰りがけに聞いてみた。
「あの、三階の匂いデバイス、受け取る人いないみたいですけど」
「ああ、あれ」彼女は困ったように笑った。「配送ルートのバグなんです。うちの区画、実は匂いデバイスの対象外エリアなんですけど、プリクラ機の設置場所と郵便番号が混線してて」
プリクラ機?
「メタバース広場の入り口に、旧型のプリクラ機を改造した接続端末があるんです。そこから匂い再現の信号を送る仕組みなんですけど、物理配送の宛先データベースが古いままで」
彼女は肩をすくめた。
「だから、うちの住所に届くはずの荷物が、プリクラ機の管理番号に紐づいちゃってるんです。で、プリクラ機は住所持ってないから、結局この棟に全部返ってくる」
「それ、誰か直さないんですか」
「内閣ユニットに報告はしてます。でも、党ドクトリンの署名が通らなくて。多分、平成的な郵便制度の再現が優先されてるんでしょうね」
俺は荷物を下ろして、また階段を降りた。三階の踊り場で、匂いデバイスをひとつ拾い上げた。電源を入れると、ほのかに焦げたトーストの匂いがした。
『それ、持って帰るのか?』
兄貴が聞いてきた。
「ああ。なんか、捨てるのも変だし」
『お前、律儀だな』
「兄貴がそう育てたんだろ」
イヤホンの向こうで、兄貴が笑った気がした。
車に戻って、次の配送先を確認する。ガラケーの画面に、iモード風のUIで住所が並んでる。その下に、閣議決定の通知バナーが小さく点滅してた。
第0x8F1A内閣ユニット、五分間の任期開始まであと二分。
俺、明後日あたり総理大臣になるかもな。
『その時は、匂いデバイスの配送バグ、直してやれよ』
「考えとく」
エンジンをかけた。フロントガラスの向こうに、メタバース広場の看板が見えた。入り口の脇に、確かにプリクラ機があった。ピンクと水色の古い筐体。誰も使ってない。
それでも、誰かの匂いを転送し続けてる。
音声メモ、終了。