回覧板は午前一時に届く
──平成0x29A年04月01日 01:10
深夜一時を過ぎた団地の廊下は、非常灯のオレンジだけが等間隔に並んでいる。
私はドアの郵便受けに突っ込まれた回覧板を引き抜いた。A4の茶封筒にクリアファイル、中に手書きの連絡用紙。「4月度・合成食品プリンタ共用スケジュール(暫定)」。その下に各戸の認印欄がずらりと並んでいて、三分の二ほど埋まっている。前の住人が押したのが午前零時四十八分。几帳面にボールペンで時刻が添えてある。
「深夜に回すなよ……」
独り言のつもりだったが、左耳の奥で母さんが応じた。
『あんた、起きてたんだからいいでしょ。はんこ押しなさい』
近親人格エージェント、岸本弘子。私の母。享年五十一、くも膜下出血。生前と変わらず口うるさい。私は玄関の靴箱の上に回覧板を置いて、三文判を探した。
認印を押し、時刻を書き込む。一時十分。次は隣の506号室だ。あとで郵便受けに入れておけばいい。
クリアファイルの裏側に、もう一枚紙が挟まっていた。
差出人は自治会ではない。印字されたタイトルは「署名シード公開のお知らせ(非公式)」。党ドクトリンの閣議署名に使われるアルゴリズムの、シードの一部がそのまま載っている。十六進数の羅列。もう隠すつもりもないらしい。回覧板に挟んで団地を一周させるくらいだから。
『ああ、またこれ?』と母さんが言う。『先月も来たでしょ。捨てなさい』
「捨てていいのかな」
『良いも悪いもないわよ。あんた総理やったとき署名通ったでしょ、普通に』
三ヵ月前、私は第0x7FA02内閣ユニットの内閣総理大臣を五分間務めた。合成食品プリンタの出力上限を月あたり二キロ引き上げる差分リクエストを一件承認しただけだ。署名アルゴリズムは母さんの補佐で通した。あのとき、シードの前半は既に自明だった。後半の四十八ビットだけが未知で、母さんが「たぶんこれ」と補完した値はそのまま通った。
つまり、もう誰でも署名できる。
紙を元に戻し、クリアファイルを閉じた。
台所に戻ると、合成食品プリンタが低く唸っている。寝る前にセットした味噌汁の素材パックが、あと二十分で完成する。プリンタの側面には近傍通信タグが貼ってある。共用機材の利用ログを自治会サーバへ飛ばすための小さなシールだ。私がプリンタに手を近づけるたび、ぴ、と短く鳴る。
シンクの横には、娘が学校から持ち帰ったプリクラのシールが冷蔵庫に貼ってある。「ゆめかわフレーム」と書かれた枠の中に、娘と友達がピースしている。フレームの隅にちいさく「iモード対応・QRで動画再生」と印字されていて、試しにガラケーで読み込んだら404だった。娘は「最初から映らないよあれ」と笑っていた。
母さんがまた耳の奥で喋る。
『味噌汁、大豆比率ちゃんと設定した? 前回薄かったでしょ』
「した。七十パーセント」
『ならいいけど』
私は回覧板を持って玄関を出た。506号室の郵便受けに差し込む。署名シードの紙はそのまま挟んである。抜く理由もない。誰かが抜く理由もない。誰もが知っていることが、茶封筒に入って団地を一周している。それだけのことだ。
廊下の非常灯がひとつ、ちかちかと点滅した。近傍通信タグが拾ったのか、手首の端末に通知が来る。「第0xA1E09内閣ユニット 内閣総理大臣選出のお知らせ 対象:岸本宏樹 任期:01:12〜01:17」。
また五分だ。
『あら、またじゃない。ちゃんとやりなさいよ』
「うん」
私は廊下に立ったまま、差分リクエストの一覧を開いた。七件。全部、些細なものだ。承認ボタンを押す。署名は一瞬で通る。シードを知らなくても知っていても、同じ結果になる。
味噌汁ができる頃には任期が終わっている。
部屋に戻ると、プリンタの完成音が鳴った。