折込の裏にナノの花が咲く
──平成0x29A年 日時不明
朝の巡回前に、私はいつもロッカー室で折込チラシを読む。
第十一地区治安維持ステーション、夜間監視班。勤続九年。名前は戸田志保、四十一歳。ステーションの朝は静かだ。夜勤明けの同僚たちが帰り、昼番が来るまでの三十分だけ、ここは私のものになる。
チラシは合成紙で、毎朝ポストに届く。「ナカウチ電器 秋の大感謝祭」「ドラッグストアひまわり ナノ医療パッチ全品二割引」——紙面の半分は家電量販店のテレビ特価、もう半分はナノパッチの効能一覧。血圧補正、睡眠深度調整、微小血栓溶解。私はこのチラシの裏にメモを取る癖がある。今朝のメモは一行だけ。
〈叔母、倫理検査通知——本日午前十時〉
右耳のイヤホンから、叔母の声がした。
「志保ちゃん、今日ね、あたし行かなきゃいけないのよ」
戸田房江。母の妹。享年五十九。生前は交番の事務員だった。母が先に逝き、叔母も逝き、叔母のほうが相性が良いだろうと勧められてエージェント登録した。もう七年になる。
「わかってる。十時でしょ」
「あたしがいない間、代理の子が来るから。ちゃんと挨拶しなさいよ」
叔母はいつもこうだ。代理エージェントの割り当ては自動なのに、まるで近所の子を預けるみたいに言う。
私はロッカーの扉に貼ったナノ医療パッチを一枚剥がし、左の肩甲骨のあたりに貼った。夜勤の肩凝りに効く。チラシによれば新型は「記憶補助アプリ連動」で、パッチが検知した体調データを記憶補助に飛ばし、疲労が蓄積した時間帯をハイライトしてくれるらしい。私のガラケーにはその記憶補助アプリが入っている。iモード風の画面に、昨日の睡眠スコアが小さく表示されている。四十二点。叔母なら「寝なさい」と言うところだ。
午前九時五十八分、監視モニター室。十二面の画面に第十一地区の街路が映っている。商店街、公園、駅前ロータリー。平日の朝、人はまばらだ。
叔母が言った。「じゃあ行ってくるわね」
「うん。行ってらっしゃい」
沈黙。二秒。
そして、声が変わった。
『代理エージェント〇七番です。戸田志保さん、本日の補佐を担当します。ご質問があればどうぞ』
無機質だが丁寧な声。嫌いではない。ただ、叔母の声がないと監視室は広すぎる。
モニターの一面に、内閣ユニットからの政策変更リクエストが重なった。第十一地区の監視カメラ更新に関する予算配分の差分。承認期限は本日中。私は折込チラシの裏を返し、差分の要点を走り書きした。カメラ台数は現行維持、ただしレンズ解像度を二段階上げる。予算差分は微増。
代理エージェントに訊いた。「これ、ドクトリン署名通る?」
『現行アルゴリズムとの整合性は九十七パーセントです。承認推奨です』
九十七。叔母ならここで「百じゃないのが気になるわね」と言った。私はそう思いながら承認ボタンを押した。ガラケーの画面に「閣議決定済」の文字が出て、三秒で消えた。
昼前、叔母が戻ってきた。倫理検査は無事に通過したらしい。
「ただいま。何かあった?」
「カメラの予算、承認した」
「あら、あたしがいない間に。ちゃんとチラシの裏にメモした?」
「した」
「よしよし」
私はロッカーに戻り、肩のナノパッチを剥がした。記憶補助アプリに通知が一件。〈本日午前十時〇〇分〜十一時四十七分、ストレス指数が通常の一・八倍でした〉
叔母がいない百七分間。数字にされると、少し恥ずかしい。
棚の奥に、一枚のCD-Rがある。叔母の人格データの初期バックアップ。七年前、登録センターで渡された。ケースには叔母の字で「志保ちゃんへ」とだけ書いてある。いつかこのCD-Rも読めなくなる。ナノパッチの寿命より、きっと短い。
「叔母さん」
「なに?」
「次の検査、いつ?」
「三ヶ月後よ。どうしたの」
「——別に。チラシ、新しいの取っておくね」
私はそう言って、ナカウチ電器の特価面を上にしてチラシを畳んだ。裏の走り書きが隠れる。叔母がいなかった時間の痕跡が、紙の折り目の中に沈んでいった。