白の円舞、あるいは亡き妻の聴覚

──平成0x29A年01月08日 01:00

午前一時。公園の空気はガラスみたいに冷え切っていた。
俺はベンチに深く腰掛け、iPodの白いイヤホンを耳に突っ込んでいる。クリックホイールを親指でなぞる感触だけが、妙に生々しい。

『譲、時間。相手の生体認証は三分前に通過済み』

網膜に直接、妻だったものの声が響く。聡美。今は俺のパーソナル・エージェントだ。

「わかってる」

俺は短く応じ、脳波UIに意識を集中させる。公園を巡回する自律型監視ドローンの軌道予測が、風景に重なって青い線を描く。聡美が計算した死角が、緑色の安全な通路としてハイライトされた。

遠くで、落ち葉を吹き寄せる清掃ボットの群れが、統率された動きで滑っている。そのうちの数体が、俺のいる東屋の方へ静かに進路を変えた。物流用の群ロボット。清掃はカモフラージュだ。

先頭の一体が、俺の足元でぴたりと止まる。機体側面のパネルが、音もなくスライドして開いた。
俺はジャケットの内ポケットから、スピンドルケースに入ったCD-Rの束を取り出す。
虹色に光る盤面が、公園の常夜灯を鈍く反射した。

『第0x881C内閣ユニットで非承認になった政策変更リクエスト。旧川崎エリアの学童保育補助金関連ね。ドクトリンのアルゴリズムが「冗長な支出」と判断したやつ』

聡美が淡々とデータを解説する。

「どうせ、これを別のユニットに回したところで、誰かの懐が温かくなるだけだろ」

俺はCD-Rを一枚ずつスロットに差し込みながら、吐き捨てるように言った。
党ドクトリンとかいう、誰が作ったかもわからない三百年前の亡霊に、俺たちの生活は今も縛られている。その隙間を縫って小銭を稼ぐのが、俺みたいな人間の仕事だ。

『でも、中には本当に必要な申請もある。あなたも知ってるでしょ』

聡美の声には、非難の色が混じっていた。生前の彼女は、こういうことに熱心だった。システムの歪みを正そうと、小さな市民グループで活動していた。その人格の名残が、エージェントとなった今も強く息づいている。

最後のディスクを挿入し終える。データ転送を示す緑のランプが点滅を始めた。
ふと、どうしようもない疑問が口をついて出た。

「なあ……お前は、本当に聡美なのか?」

『……』

「それとも、ただのプログラムが、俺の記憶に合わせて『聡美』を演じてるだけじゃないのか?」

沈黙が流れる。iPodから流れる古いポップソングだけが、俺の耳を満たしていた。
やがて、聡美がゆっくりと答えた。

『わからない。でも、あなたのiPodに入ってるその曲。私が死ぬ二日前、病室で一緒に聴いた最後の曲だってことは、覚えてる』

俺の指が、止まった。

ピー、と短い電子音が鳴り、ロボットのランプが消灯する。転送完了。パネルが閉まり、機体は再び群れの中へと滑るように溶け込んでいった。
まるで、白い円舞だ。何事もなかったかのように、ロボットたちは落ち葉を集め続ける。

俺はベンチから立ち上がり、iPodの白いボディを握りしめた。聡美の言葉が、頭の中で反響している。

『ねえ、譲』

聡美が囁く。

『あの曲、もう一回、頭から聴きたいな』

俺は頷き、クリックホイールに指を置いた。再生ボタンを押そうとした、その瞬間。

『でも、変ね』

聡美の声が、氷のように冷たい響きを帯びた。

『私、音楽を聴くための聴覚インターフェースなんて、実装されてないはずなのに』

俺の指は、ホイールの上で凍りついた。