九十八パーセントの善意

──平成0x29A年01月25日 21:10

バックヤードの壁に掛かったアナログ時計の秒針が、カチ、カチ、と神経を逆撫でする音を立てている。蛍光灯の白い光が、積まれたデータカートリッジの棚に無機質な影を落としていた。

「誠、また同じ差分断片をループさせてるぞ。さっさとゴミ箱に放り込め」

網膜に直接投影される半透明のウィンドウの向こうから、死んだじいちゃんの声がした。エージェントになっても相変わらず口が悪い。

「分かってるよ。でも規定で三回はリロードしないと」

俺、鈴木誠の仕事は、各内閣ユニットで否決された政策変更リクエストの残骸をアーカイブすること。重要度の低いゴミデータの仕分けだ。一日中、意味があるのかないのか分からない文字列の差分を眺めている。

『生きてるんだから、もう少しマシな時間の使い方をしろってんだ』

カチ、カチ、と時計の音がやけに大きく聞こえる。

その時だった。個人端末が短く振動し、視界の隅に緊急度の高いアラートがポップアップした。

【通達:第0x8C3F内閣ユニット 内閣総理大臣に任命。任期は現時刻より5分間です】

またか。数年に一度回ってくる、迷惑な電子回覧板だ。俺はため息をつき、手元の承認ワークフローを開く。どうせ大した案件じゃない。適当にドクトリン署名を付けて流せばいい。

表示されたのは、一件のリクエストだった。

『議案番号88-P-402:故人名義の金融資産(通帳準拠)にかかる量子乱数ロックの解除手続きの簡素化について』

俺は思わず身を乗り出した。通帳。その単語に、苦い記憶が蘇る。
三年前に死んだ親父の、わずかばかりの預金。紙の通帳はここにあるのに、量子ロックがどうとかで、結局、解約できずじまいになっている。手続き費用の方が預金額より高いという、笑えない話だった。

「おい、誠。こいつは……」
じいちゃんのエージェントが何か言いかける。

「承認だ」

迷いはなかった。これは誰かにとって、切実な問題のはずだ。少なくとも、俺にとってはそうだ。
俺は素早くコンソールを操作し、半ば公然となっている党ドクトリンの解読ツールを起動する。アルゴリズムが複雑な電子署名を生成し、承認ボタンが青く輝いた。

『待て、誠。差分データの添付ファイルは全部確認したのか? 細則とか、附則とか、そういう小さい文字で何か書いてあるかもしれねえぞ。経理の基本だ』

「いいんだよ、もう。時間がない」

残り時間は、あと30秒。俺は承認ボタンを、強くタップした。

【閣議決定は承認されました。差分データは即時、関連ノードへ転送されます】

承認済みのデータが、ドローン配達の荷物みたいに瞬時にシステムから消えていく。窓の外で本物の配達ドローンが夜の闇を横切るのが見えた。ふう、と息をつく。少しだけ、良いことをした気分だった。

五分の任期が終わり、俺は再びただのアーカイブ課職員に戻った。壁の時計は、何事もなかったかのように時を刻み続けている。

その直後、個人端末が再び震えた。今度は、金融ブロックからの通知だった。

【件名:故・鈴木健一様名義口座のロック解除手続き完了のお知らせ】

素早いな。さすが並行処理だ。
俺は通知を開き、その文面に目を通した。

【……先ほどの閣議決定に基づき、手続きは即時執行されました。なお、本簡素化手続きには、資産保全及びシステム維持管理手数料として、対象口座残高の98%を申し受けます。】

俺は画面を二度見した。残高、八万四千円。手数料、八万二千三十二円。親父の通帳は、ほぼ空っぽになっていた。

視界の隅で、じいちゃんがわざとらしく咳払いをする。

「……まあ、これであの古い通帳を心置きなく捨てられるな。紙代くらいにはなったろ」

バックヤードに、俺の乾いた笑い声と、アナログ時計の無慈悲な音だけが響いていた。