暗室の手順、赤い光の余韻

──平成0x29A年04月14日 21:40

僕が教えているのは、写真現像の実習だ。

第9職業訓練ブロックの地下二階、古めかしい暗室。赤い安全光だけが頼りで、生徒たちは慣れない手つきで現像液の入ったトレイを揺らしている。平成0x29A年の今も、党ドクトリンは「アナログ技能の継承」を義務教育に含めている。理由は誰も知らない。アルゴリズムがそう決めたから、それだけだ。

「先生、これでいいんですか」

一番手前の生徒、確か名前は坂井だったか。折りたたみ携帯を腰のベルトに挟んだまま、おっかなびっくりトレイを揺すっている。

「もう少し強く。液が全体に回るように」

僕の耳元で、母さんのエージェントが囁いた。

『あんた、声が小さい。もっとはっきり言わないと』

母さんは享年52で、心不全で逝った。生前は小学校の教師で、声の張り方には厳しかった。今も変わらない。

「——もう少し強く揺すって。液を全体に回すんだ」

今度は声が大きすぎたのか、生徒たちが一斉にこちらを見た。気まずい。

暗室の奥で、別の生徒が近傍通信タグをかざして出席記録を取っている。タグは訓練ブロックの入口にもあるのに、党ドクトリンの最新パッチで「各工程ごとの記録」が義務化された。無駄だと思うが、逆らう理由もない。

現像が進むにつれ、印画紙に像が浮かび上がる。桜の木を撮ったものらしい。ぼんやりした輪郭が、次第にくっきりしていく。この瞬間が好きだ。デジタルにはない、手応えがある。

「先生、これ、どうやって持ち帰るんですか」

坂井がトレイから上げた印画紙を、困ったように見つめている。

「乾燥させたら、現像袋に入れて渡すよ。昔はどこの写真屋にもあったんだ」

僕は棚から黄ばんだ現像袋を取り出した。「フジカラー」と印刷された、見覚えのあるデザイン。母さんが生きていた頃、まだ街に写真屋があった。僕も子供の時、遠足の写真をこの袋で受け取った記憶がある。

『懐かしいわね。あんた、あの袋開けるの下手だったのよ』

母さんが笑った。エージェント越しでも、温かみが伝わってくる。

「先生、支払いってどうするんですか。デジタル円ウォレットで?」

別の生徒が訊いてきた。

「いや、これは訓練だから無料だ。でも昔は、現金で払ってたんだよ」

生徒たちが顔を見合わせる。現金、という言葉自体、彼らには教科書の中の存在なのだろう。

暗室の隅で、僕の折りたたみ携帯が震えた。内閣ユニットからの通知だ。開くと、五分間の総理任期が回ってきたことを告げるメッセージ。またか。

『あんた、ちゃんと見なさい。閣議リクエストが三件来てるわよ』

母さんに促されて目を通す。どれも些細な差分承認だ。訓練ブロックの備品購入、近傍通信タグの設置基準変更、それから——写真現像実習の廃止検討。

心臓が跳ねた。

党ドクトリンの署名アルゴリズムを見る。解読済みのパターンだ。承認すれば、この実習はなくなる。非承認にすれば、少なくとも今期は残る。どちらでも、世界は大して変わらない。

でも、僕の手の中には、まだ湿った印画紙の感触がある。

母さんが囁いた。

『あんたが決めなさい』

僕は非承認のボタンを押した。

五分が経ち、任期が終わる。また別の誰かが、別の内閣ユニットで、同じような判断をしているのだろう。

暗室に戻ると、生徒たちが印画紙を乾燥機にかけている。坂井が振り返って、少し照れたように笑った。

「先生、けっこう楽しいですね、これ」

僕も笑った。赤い光の中で、その顔がよく見えなかったけれど。

現像袋を手に取る。指先に、紙の手触りが残っている。