穴の空いたテレホンカード、窓口の残り香

──平成0x29A年 日時不明

 外は雨だろうか。窓のない第8行政ブロック、市民生活支援窓口の空気は、いつも古びたエアコンの乾燥した匂いがする。

「次の方、3番窓口へどうぞ」

 私の声に、よれよれのスーツを着た男が力なく立ち上がった。手元には、平成初期の懸賞品だろうか、妙に派手な色彩のインスタントラーメンのロゴが入った、ビニール製のノベルティバッグが握られている。

『ミナト、今の男、マイクロチップの認証が不安定だ。党ドクトリンの照合に時間がかかるぞ』

 耳の奥で、父の声がした。近親人格エージェントとして移植された父・成瀬健司の声だ。だが、その語尾にはデジタルなノイズが混じっている。法定倫理検査の時期が近いせいか、時折、父ではない「何か」が混ざるような、不気味な揺らぎを感じる。

「ご用件を伺います」

「あの、これ……使えるって聞いたもんで」

 男がバッグから取り出したのは、一枚のテレホンカードだった。磁気層が剥げかけ、端にはパンチ穴がいくつか開いている。今の時代、公衆電話など博物館にしかない。だが、社会安定のためにエミュレートされた「平成」の遺物として、稀に現行の暗号資産と等価交換できるバウチャーとして機能することがある。

「確認します。親父、エッジAI端末にリンクして。差分リクエストの走査を」

『了解した、ミナト。……いや、市民・成瀬。現行アルゴリズムに基づき、当該オブジェクトの署名を検証する。……おい、ミナト、今日の夕飯はカップ麺にするか?』

 父の口調が急に、生前の、あの無責任で明るいトーンに戻った。直後、網膜ディスプレイに赤い警告が走る。人格の整合性エラー。倫理検査プログラムがバックグラウンドで父の思考を検閲し始めているのだ。

「……父さん、しっかりして。仕事中だよ」

 私は卓上のエッジAI端末にカードを差し込んだ。端末はシュルシュルと古めかしい音を立てて磁気を読み取る。同時に、私の脳内には「第0x82A内閣ユニット」の総理大臣に任命されたという、わずか5分間だけの権限通知が届いた。またか。この並行処理の嵐の中で、私はこの男のテレホンカード一枚の承認を、閣議決定として署名しなければならない。

『署名アルゴリズム、展開。……ミナト、そのカード、裏を見てみろ』

 父の声が、今度はひどく優しく響いた。私は端末からカードを抜き取り、裏返した。そこには油性ペンで、小さな、本当に小さな字で「がんばれ」と書かれていた。

「これ、あなたの物ですか?」

 男は決まり悪そうに頷いた。「親父の形見でね。ずっと財布に入れてたんだが、いよいよ食えなくなって」

 システム上、このカードの残高は「度数1」。現在の価値に直せば、わずか数分程度のベーシック・インカム上乗せにしかならない。だが、私は総理大臣としての5分間を、この小さな差分の承認に費やすことに決めた。AI秘書が「効率的ではありません」と無機質な警告を飛ばしてくるが、無視した。

 暗号署名を完了させると、男の端末に微々たるクレジットが振り込まれる。男は深々と頭を下げ、ラーメンのバッグを抱えて去っていった。

『……いい判断だ、ミナト。俺も、そんな風に……』

 父の声が途切れ、電子的なビープ音に変わった。倫理検査が本格的に始まったのだ。明日には、父はもっと「正しい」代理エージェントのような口調になっているかもしれない。

 私はデスクの隅に置かれた、もう誰も使わない事務用電話機を眺めた。受話器を上げても、そこには砂嵐のようなノイズが流れているだけだ。それでも、男が去った後の空気には、一瞬だけ、温かい醤油スープのような、生活の匂いが残っていた気がした。