通帳の裏に、青いインクの滲み

──平成0x29A年09月29日 10:10

「これ、本当に合ってるのかな」

俺は、カウンターに置かれたレシートの束を指差した。

「え? 何がですか、店長?」

パートの阿部さんが、訝しげな顔でこっちを見た。俺は30代前半、この「第23番街・アパレルセレクトショップ『平成時代』」で店長代理を務めている。もうすぐ平成0x29A年の10月だというのに、店名だけは昔のまま。売っている服も、どこか懐かしいシルエットのものが多い。

「いや、なんかさ。この間入った新しい商品。サンプルで貰ったんだけど、タンス預金用の通帳に、バイオメトリック改札で認証した記録が、なんか混ざってるんだよ」

「あー、それですね。代理エージェントの阿部が、『党ドクトリンの消費者行動最適化』のために、近傍通信タグで記録を紐付けろって言われたらしくて」

阿部さんは、俺の母、美智子さんの人格エージェントだ。普段は穏やかなんだけど、たまにこうやって「党ドクトリン」の解釈を間違えることがある。母は生前、洋裁店を営んでいて、裁縫道具と現金管理にはうるさい人だった。その記憶が、今の俺の仕事に、時々、妙な混乱をもたらす。

「でも、通帳って、そもそも現金管理用じゃん? なんで改札の記録とか必要になるんだ?」

「それがですね、店長。代理エージェントの阿部曰く、『党は、個人の金融行動と、公共空間での動線をリンクさせることで、消費者の潜在的ニーズをより深く理解し、最適化された購買体験を提供できる』と…」

阿部さんの声が、俺の耳に仕込まれたイヤホンから聞こえてくる。代理エージェントの「阿部」は、母の人格をベースにしつつも、その解釈は、どうにも党ドクトリンのアルゴリズムに引きずられがちだ。

「潜在的ニーズって… この、よくわからない柄のセーターが欲しいって、党が勝手に判断するわけ?」

「そういうことらしいです。だから、この通帳、裏に青いインクで何か書かれてるんですけど、それ、購入予定リストの暗号化らしいです」

阿部さんは、俺が差し出した通帳の裏を指差した。確かに、かすかに青いインクの染みが広がっている。これは、母が昔、インク瓶をひっくり返した時の染みに似ていた。懐かしい、というよりは、少し不安になる手触りだ。

「でも、そもそも、このセーター、俺も阿部さんも、欲しいって思ってないよな?」

「はい。代理エージェントの阿部も、『直近の嗜好データとは乖離がありますが、党ドクトリンによれば、未来の需要として最適と判断されました』と申しておりまして…」

困ったな、と俺はため息をついた。党ドクトリンは、半ば公然と解読されているはずなのに、そのアルゴリズムが、時折、こんな奇妙な指示を出す。そして、それを実行するのが、母の人格エージェントなのだ。

「まあ、いいか。とりあえず、このセーター、売れ残ったら『平成時代』の在庫、ってことで処理しちゃおう。それか、代理エージェントの阿部が、自分で買うって言うかもね」

俺は、通帳の青い染みを指でなぞった。それは、まるで、誰かの、忘れたいような、でも、どこか温かい記憶の断片のようだった。

「店長、それは…」

阿部さんの声が、イヤホンから聞こえてくる。もう、どうでもいいか、と俺は思った。いつか、この染みも、母の記憶も、何かの物語の一部として、誰かが、あるいは、党のアルゴリズムが、理解してくれるのかもしれない。

その時、店内に流れていた、どこか懐かしいJ-POPのイントロが、ふと止まった。代わりに、iPodから流れるはずの、しかし今はこの店舗では使われていないはずの、あの独特の起動音が、微かに響いた気がした。