鍵穴とプリクラ、他人の住所
──平成0x29A年08月14日 16:40
俺の端末が震えたのは、エレベーターを降りた瞬間だった。
「お疲れ様です、亮太さん。今日は第0x4A2F3内閣ユニットの総理大臣任期が17時12分に終了予定ですね」
代理エージェントの無機質な声が、耳の奥で響く。兄貴の声じゃない。兄貴のエージェントは今週、法定倫理検査中だ。この代理の奴は、俺の名前を呼ぶ時も棒読みで、まるで自動音声みたいだ。
俺は第6居住ブロックの管理人補佐で、主に鍵の貸し出しと共用設備の点検をやっている。今日は夏季休暇前の最終巡回日だ。
4階の廊下を歩いていると、404号室の前で足が止まった。ドアの横に貼られた入居者プレートが、見覚えのない名前になっている。
『入居者:橋本 慎也』
おかしい。ここは確か、独り暮らしの大学生——名前は失念したが、橋本じゃなかった。俺は端末を取り出し、居住者データベースを開く。触覚フィードバック端末が、画面をなぞる指先に微かな抵抗を返してくる。90年代のタッチパネルみたいな感触だ。
「404号室……該当なし?」
画面には『照合エラー:権限不足』の文字。
代理エージェントが即座に反応する。
「亮太さんの端末に、404号室へのアクセス権限が付与されていません。再照合を試みますか?」
「ああ、頼む」
数秒後、端末が再び震える。今度は別の通知だ。
『緊急:居住権限の再割当完了。対象:柳沢 亮太。新規住所:第6居住ブロックD棟404号室』
……は?
俺の住所は、C棟の203だ。404なんて知らない。
「代理、これどういうことだ?」
「照合システムが、あなたの身分情報を404号室の入居者として再登録したようです。原因は不明です」
背筋が冷たくなる。俺は自分の端末で、玄関の電子錠を解除しようとした。画面に『認証成功』の文字。ドアが、静かに開いた。
中に入ると、見知らぬ部屋だった。壁際には古いスマート冷蔵庫が鎮座している。扉に貼られたマグネットには、色褪せたプリクラが挟まっている。俺の知らない女性二人が、ピースサインをしている。
テーブルの上には、MOディスクが数枚、ケースに入ったまま積まれていた。ラベルには『H12年度・家計簿バックアップ』と手書きで書いてある。平成12年——いや、この世界の平成エミュレーションでは、そんな年号は使わない。これは本物の平成時代の遺物か?
「代理、この部屋の元の入居者は?」
「データベースに記録がありません。404号室は、過去30年間『空室』として登録されています」
空室なのに、荷物がある。
俺は冷蔵庫を開けた。中には賞味期限の切れた牛乳パックと、カビの生えたタッパーが入っていた。匂いが鼻をつく。冷蔵庫のディスプレイには『節電モード:3日間稼働なし』の表示。
その時、廊下から足音が聞こえた。
「あの、すみません……」
振り返ると、若い女性が立っていた。手には引っ越し用の段ボール箱。
「ここ、404号室ですよね? 今日から入居する橋本って言うんですけど……」
俺の端末が、また震えた。
『居住権限の再割当完了。対象:橋本 慎也。新規住所:第6居住ブロックD棟404号室』
画面を見ると、俺の住所は再びC棟203に戻っていた。
「……ああ、すみません。点検中でした。どうぞ」
俺は彼女に鍵を渡し、部屋を出た。廊下を歩きながら、代理エージェントに問いかける。
「さっきの照合エラー、原因は?」
「不明です。ログには『権限の一時的な転送』とだけ記録されています」
エレベーターに乗り込む。ボタンを押す指先に、触覚フィードバック端末が微かな振動を返す。
閉まるドアの隙間から、404号室のドアが見えた。橋本さんが、プリクラを剥がしているところだった。
彼女の顔が、プリクラの中の女性に似ていた。
代理エージェントの声が、耳の奥で響く。
「亮太さん、本日の巡回は完了です。お疲れ様でした」
エレベーターが動き出す。俺は、MOディスクのラベルをもう一度思い出していた。
『H12年度』——その年は、俺がまだ生まれていない頃だ。