十個目の朱印、五分間の決断
──平成0x29A年11月12日 17:30
夕暮れの『カラオケ・うた丸』三号室は、古い液晶モニターが放つ青白い光と、タバコの煙をエミュレートした人工芳香剤の匂いに満ちていた。壁のMDコンポからは、誰かが入れた九〇年代のヒット曲が、デジタル特有の平坦な音響で流れている。
「お兄ちゃん、次。学校の連絡網。量子乱数ロック、レベル三だよ」
耳の奥で、五年前に死んだ妹の結衣が、生前と変わらぬ軽い調子で告げた。彼女の人格エージェントは、こういう事務処理の時だけは頼りになる。僕は手元のガラケー型端末を開いた。画面には、複雑に絡み合う幾何学模様。ドクトリンの深層から吐き出された、現行制度との差分リクエストだ。
「またこれか。町内会の『非公式ルール』、いい加減にしてほしいよ」
僕はため息をつき、ポケットから一枚の紙を取り出した。使い古され、角が丸くなった『うた丸』のポイントカードだ。表面には手書きの数字と、いくつかのスタンプ。これが、この地区における量子乱数ロックを解除するための「鍵」になっている。
本来、内閣ユニットの閣議決定に必要なアルゴリズム署名は、個人の生体認証で行われるはずだ。だが、この第402ヘゲモニー期において、ドクトリンの綻びを突いた住民たちは、独自の認証レイヤーを構築していた。ユビキタスセンサー網が、部屋の隅々から僕の動きを監視している。紙のカードに物理的なハンコを押す際の、圧力の変化、インクの滲み、そして微細な紙の繊維の歪み。それが、高度な乱数生成器の種(シード)になる。
「はい、そこに押して。角度は十五度右。そうそう」
結衣の指示に従い、僕は備え付けの安っぽいシャチハタをカードの十個目のマスに押し当てた。カチリ、と小さな音がして、ガラケーの画面が切り替わる。
【第0x4F2A内閣ユニット:内閣総理大臣に選任されました。任期:299秒】
画面には、どこか威厳のある毛筆体のフォントが表示された。同時に、大量の政策パッチが流れてくる。「公園の自販機の増設」「皇室遺伝子ネットワークへの微弱な電力供給割り当て」「特定地区のAR看板の色彩制限」。これらすべてが、党ドクトリンに基づく暗号署名を待っている。
「あーあ、お兄ちゃん運がいいね。ちょうど総理大臣のターンじゃん」
結衣が笑う。だが、僕はそれどころではない。この地区の「連絡網」の真の目的は、これらの政策を承認することではないのだ。連絡網の最下部に隠されたテキスト・スロット。そこに、町内会長から指示された「非公式な差分」を入力しなければならない。
「ええと……『今週の日曜、公民館の裏で焼肉。会費千円、飲み物持参』、と」
僕は慣れない手つきでトグル入力を使い、その一行を政策リクエストの末尾にねじ込んだ。これが承認されれば、ドクトリンのアルゴリズムは「社会安定のための必要経費」として、公民館の防犯ロックを解除し、周辺の監視カメラを一晩だけスリープ状態にする。党の厳格な統治下で、住民たちがささやかな娯楽を享受するための、唯一の「裏技」だった。
「承認ボタン、押して。あと三秒」
結衣の声に急かされ、僕は決定キーを強く叩いた。画面が暗転し、任期終了を告げる。どっと疲れが押し寄せた。たった五分間の最高権力行使。その対価は、焼肉の招待状だ。
僕はポイントカードを財布にしまった。これで十個、スタンプが貯まった。本来のルールなら、これでドリンクバーが一回無料になるはずだ。
「ねえお兄ちゃん、気づいてる?」
結衣が、どこか楽しげに言った。
「さっきの『焼肉』の項目。お兄ちゃんの入力ミスで、ドクトリンが『焼却』として処理しちゃったみたい。しかも対象が公民館全体になってる。今、アルゴリズムが『老朽化した公共施設の効率的な廃棄』として署名を通しちゃったよ」
僕は凍りついた。モニターの中では、懐かしい平成の歌姫が、愛だの希望だのを高らかに歌い上げている。
「……じゃあ、日曜日の集まりは?」
「うん。公民館の解体ショーになっちゃうね。あ、でも大丈夫。スタンプ一個おまけしてくれたみたいだよ。センサー網が『総理大臣としての迅速な決断』に感動したんだって」
手元のポイントカードを見ると、確かに枠外に、もう一つだけ歪なスタンプが増えていた。それは、どのメニューにも使えない、輝くような金色をしていた。