ビニール傘と再同期の夜
──平成0x29A年09月04日 23:20
窓口の蛍光灯が、また一本だけ点滅している。
二十三時を過ぎた第11行政サービスセンターに、来庁者はもういない。受付カウンターの向こうで、琥珀色に焼けたCRTモニターが低い唸りを上げていた。液晶に置き換える予算申請は三年前に非承認。理由は「現行制度との差分が過大」。意味がわからない。
「永田さん、もう帰らないの」
左耳のピアス型端末から、叔母の声が聞こえた。正確には、三年前に肺炎で亡くなった叔母・永田みどりの声だ。享年五十九。生前そのままの、少しだけ鼻にかかった響き。
「もうちょっと。データ再同期が終わんないんだよ」
私はeペーパー端末をカウンターに広げ、エラーログをスクロールしていた。本日午後、第11区の住民約四百名ぶんの個人データ同期が止まった。原因は内閣ユニット群のどれかが鍵ローテーション中に不整合を起こしたこと——らしい。叔母のエージェントが要約してくれた内容を、私はそのまま繰り返しているだけだ。
影響は地味だが深い。デジタル円ウォレットの残高が参照できない。保険の資格確認が通らない。明日の朝、ここに並ぶ人たちの顔を想像するだけで胃が重い。
「鍵の世代番号、三つ前に戻して合わせてみたら」
叔母が言う。生前は区役所の戸籍係だった人だ。こういうとき、妙に勘が利く。
「それ、ドクトリン署名通らないでしょ」
「通るわよ、たぶん。最近あのアルゴリズム、ざるだから」
CRTの画面がちらつく。叔母の言う通りだ。党ドクトリンの署名検証は、もう半分くらいの技術者が迂回方法を知っている。公然の秘密。私は知らないふりをしているだけで、叔母は知らないふりすらしない。
私は端末にコマンドを打ち込んだ。鍵世代をロールバック。署名再生成。CRTの画面に、緑色の文字列がゆっくり流れる。
承認。
四百件のステータスが、一斉に「同期済」に変わった。eペーパーの表面が、灰色から白へ、紙が呼吸するように書き換わる。
「ほらね」と叔母。
「……ありがと」
端末を畳んで、カウンター裏のロッカーからビニール傘を取り出した。コンビニで三百デジタル円。ウォレットから引かれた通知が、ガラケーの小さな外部ディスプレイに表示された。その隣に、サブスク音楽アプリの更新通知。この二つが同じ画面に並ぶことに、誰も疑問を持たない。私も持たない。
自動ドアを抜けると、九月の夜気がぬるく頬に触れた。雨は小降りになっていた。傘を開く。透明なビニール越しに、街灯がぼやけて滲む。
「ねえ、永田さん」
叔母が静かに言った。
「なに」
「私ね、生きてた頃、あなたにちゃんと言えなかったことがあるの」
足が止まる。
「戸籍係やってた頃、あなたの届出、私が受理したの覚えてる? 転入届」
覚えている。十八のとき、実家を出て叔母の区に越してきた日。
「あのときね、嬉しかったの。この子がうちの区に来てくれたって。でも窓口だから、顔に出せないでしょう。だから帰りに泣いたの、トイレで」
雨粒がビニール傘を叩く音だけが、しばらく続いた。
「……なんで今それ言うの」
「データの再同期が終わったから。私のほうも、ちょっとだけ」
叔母は笑った。鼻にかかった、あの笑い方で。
CRTモニターの電源を落とし忘れたことに気づいたけれど、戻る気にはなれなかった。
明日の朝、また点滅しているだろう。蛍光灯も、あの琥珀色の画面も。