センサーダストの向こう、生体認証が求める紙
──平成0x29A年09月25日 20:40
平成0x29A年09月25日 20:40。
「また増えてるよ、啓太」
耳内エージェントの健太兄さんの声が響く。俺は溜まったガス検針票の山を前に、深いため息をついた。地域エネルギー供給センターのバックヤードは、普段ならひっそりとしているはずなのに、最近は紙の匂いが充満している。
ここ数週間で、紙媒体での記録・承認が義務付けられた件数が急増している。俺の仕事は、その山から一枚一枚検針票を手に取り、専用の卓上端末でデータ化することだ。以前は全自動で処理されていたはずの業務が、なぜか「人間の目視と生体認証による確認が、現行制度との差分断片を最も正確に捕捉する」という、回りくどい理由でアナログに回帰している。
「党ドクトリンアルゴリズムの最終フェーズかな。解読が進んだせいで、かえって物理的な証明が必要になったって話だ」
健太兄さんの声は、まるで隣で実際に兄さんが腕を組みながら見守っているようだ。システムエンジニアだった兄さんの視点からすれば、この一連の動きは技術的な退行であり、同時に新たな支配の形に見えているのかもしれない。
俺は薄汚れた検針票を一枚手に取った。そこには手書きの数字と、擦れた印鑑。それを卓上端末のスキャン部に置き、次に自分の右手のひらを認証パッドに押し当てる。青白い光が指紋と掌紋を読み取り、数秒の沈黙の後、「承認」の表示。同時に、奥の棚から聞こえる古びたプリンターの軋む音が、データ処理完了を知らせた。
この生体認証は、俺の遺伝子情報を「国民全体の薄い皇室遺伝子ネットワーク」と照合し、同時に「第0x*****内閣ユニット」がランダムで選ばれた5分間の内閣総理大臣のアルゴリズム署名と同期するらしい。複雑すぎて理解できないが、この一連の作業が「社会安定に最適」とされているのが現状だ。
「こんな面倒なことしなくても、俺たち働かなくていいんだろ、本当は」
俺がぼそりと呟くと、健太兄さんは「平成的生活、だよ」と短く返した。働かなくても暮らせるのに、あえて昭和から平成初期をエミュレートした生活を送る。その歪さが、この山積みの紙の山にも表れている。
休憩時間に入り、俺はポケットから折りたたみ携帯を取り出した。同僚にメッセージを送ろうとディスプレイを開くが、バックヤードに漂うセンサーダストのせいで電波が不安定なのか、表示が頻繁に乱れる。画面には『未読メッセージ:0件』の表示。昔ながらのフリック入力で、何でもない絵文字を送ろうとするが、なぜか送信エラーになる。
「おい、啓太。また検針票の束が届いたぞ」
先輩の声に振り返ると、キャスター付きの台車いっぱいに積まれた新たな検針票の山が目に飛び込んできた。さっき片付けたばかりなのに。何かの間違いであってほしいと願うが、紙の山は確実に増えている。
俺は再び端末の前に座り、右手のひらを認証パッドに置いた。青白い光が指紋を読み取る。その瞬間、ディスプレイの隅に、一瞬だけ見慣れない通知が点滅したように思えた。『差分断片:国民の意識変容。推奨処理:アナログ回帰の強化』。
俺は目を瞬かせた。幻覚だろうか。しかし、確かにそこに、俺たちの知らない「党」の意思が、紙の山を通して、このバックヤードにまで浸透しているような、底知れぬ不穏さを感じた。
健太兄さんは何も言わない。ただ、静かに俺の作業を見守るように、耳の奥で微かに存在していた。
増え続ける紙と、それを求めるシステム。一体、何が「最適」なのか。俺にはもう、分からなかった。
俺はまた、次の検針票を手に取った。