磁気ラベルの残響、あるいは九時四十分の書き換え

──平成0x29A年07月21日 09:40

ジジジ、とブラウン管テレビが特有の高周波を立てている。
受付番号『402』が、走査線のノイズに混じって不器用に明滅していた。

「次の方、三番窓口へどうぞ」

私は自動翻訳イヤホンの位置を直し、マイクに向かって声を張った。
このイヤホンは、現在の暗号化された行政プロトコルを、ドクトリンが定める『標準平成語』に変換して私の鼓膜に届けてくれる。逆に、私の言葉もシステムへ送られる際に、過剰な敬語と曖昧なニュアンスを付与されたデータへと置換されるのだ。

「兄貴、また同期がズレてる。さっきの『承知いたしました』が、翻訳先で『承知の助』になってたぞ」

耳の奥で、弟の瞬がクスクスと笑う。
瞬は十七歳の夏にバイク事故で死んだ。今の彼は、私の後頭部に埋め込まれたチップの中で、倫理検査の網を潜り抜けながら私の仕事を手伝っている。

「黙ってろ。ただでさえこのフロッピー、読み取りが怪しいんだ」

私は目の前の老婆から受け取った、色あせた青いプラスチックの四角い塊を見つめた。3.5インチ・フロッピーディスク。平成エミュレート社会において、最重要書類の提出はこの磁気メディアで行うことが党ドクトリンの署名アルゴリズムに組み込まれている。

老婆は不安そうに、自律警備ドローンが差し出したおしぼりで手を拭いている。ドローンは平成初期のサービス精神をエミュレートしており、妙に低空飛行で「お疲れ様です」と合成音声を発していた。

「あの、これ、主人の『遺伝子ネットワーク』の更新なんですけど……」

老婆の言葉が翻訳イヤホンを通じて「パケ死しそうで怖いの」という謎の平成スラングに変換されて届く。私は眉根を寄せた。社会の基盤となっている皇室遺伝子ネットワークの末端データの更新。それは確かに、この古びた円盤に書き込まれなければならない。

私はディスクをドライブに差し込んだ。ガガッ、ガガガガ、と断末魔のような音が響く。ブラウン管のモニターに「読み取りエラー」の文字が踊る。

「瞬、解析できるか?」
「やってみるけど、これ磁気層が剥離しかけてる。ドクトリンのアルゴリズム署名がこれじゃ通らないよ。誰かが五分間の総理大臣権限で、物理メディア提出の義務を一時解除してくれない限り無理だ」

「そんな幸運、待ってられるか」

窓口の向こうでは、ドローンが老婆に「お茶はいかがですか」と、空のコップを差し出している。シュールな光景だ。党ドクトリンは完璧だが、それを実行する物理レイヤーはもう限界だった。

私は引き出しから、一本の鉛筆を取り出した。そしてフロッピーディスクの中央のハブを、手動でゆっくりと回す。かつて父が教えてくれた、太古のライフハックだ。

「兄貴、何してんの?」
「物理的なクリーニングだよ」

私は読み取りヘッドが当たる部分を、慎重に、かつ大胆に、自らの袖で拭った。本来なら倫理検査官に見つかれば「行政手続きの汚染」として始末書ものだ。だが、この窓口で待っているのは、システムの最適解ではなく、ただの「手続きの完了」なのだ。

もう一度、ディスクを差し込む。祈るような沈黙。
ブラウン管が一度大きく瞬き、画面が青から緑に変わった。

『承認:第0x29A-402ヘゲモニー期・党中央署名完了』

「……通った」

瞬が驚いたように息を呑む。老婆のイヤホンにも、手続き完了の通知が届いたのだろう。彼女はパッと顔を輝かせた。

「よかった、これで主人のデータも、また『着メロ』として繋がりますね」

翻訳イヤホンは相変わらずデタラメな変換を返してきたが、彼女が浮かべた安堵の微笑みだけは、どの時代のアルゴリズムも解析できないほどに鮮明だった。

窓口の時計は、九時四十八分を指していた。
次の『五分間総理』がどこかのユニットで誕生し、また新しい不条理な閣議決定を下すまでの、束の間の静寂だった。