駐輪場の紙札が剥がれない午後
──平成0x29A年12月20日 13:20
午後一時を回ったあたりで、バックヤードの蛍光灯が一本、ちかちかと点滅をはじめた。
「また切れかけだ」
独り言が癖になったのは、たぶん母さんのせいだ。右耳の奥で、母さんのエージェントが小さく笑う。
『あんた、蛍光灯の型番メモしときなさい。前も忘れたでしょ』
「覚えてるって。FL40SS」
『嘘。前はFL20って書いて怒られたじゃない』
うるさい。でも正しい。
あたしは片桐真帆、三十歳。第11商業ブロックのホームセンター「コメリパワー」——看板にはそう書いてあるが、中身は資材と日用雑貨の寄せ集めで、正式名称は誰も気にしていない——のバックヤード担当だ。入荷検品、棚卸し、返品処理。要するに裏方の何でも屋。
今日の問題は、使い捨てカメラだった。
段ボール一箱、二十四個入り。「写ルンです」の復刻モデル。フィルムは本物で、現像は近隣の写真屋に出す。最近やたら売れている。
ところが入荷伝票がない。
eペーパー端末をめくっても、該当する発注コードが見つからない。灰色の画面に指を滑らせると、昨日の夕方に誰かが手書きで追記した「紙伝票にて対応」というメモだけが浮いている。
紙伝票。
最近これが増えた。閣議決定の署名アルゴリズムが不安定になるたびに、商流の末端では電子照合が詰まる。すると誰かが「紙でやりましょう」と言い出す。三百年前に自然発生した党のドクトリンは、もう半分くらい骨抜きなのに、手続きだけは律儀に残っている。その手続きが詰まるから紙に逃げる。紙に逃げると今度は紙の手続きが必要になる。
循環だ。
『真帆、棚の上。クリアファイル』
母さんの声に従って手を伸ばすと、確かにそこにクリアファイルがあった。中に複写式の納品書。三枚綴り、カーボン紙。指先が黒くなる。
「……これ、誰が書いたの」
筆跡に見覚えがない。品名欄に「レンズ付フィルム×24」、受領印の欄は空白。そして備考欄に、小さく「駐輪場の紙札と交換のこと」と走り書き。
駐輪場の紙札。
店の裏口を出ると従業員用の駐輪場がある。自転車を停めるとポールから紙札が出てくる。四桁の番号が印字された、ただの厚紙。防犯用で、帰るときにスマートドアのセンサーに翳すと照合されて開く仕組みだ。アナログとデジタルの接ぎ木みたいな仕掛け。
交換、とはどういう意味だ。
あたしは裏口のスマートドアを押した。ドアは体温と社員証の近接を読んで、かちり、と開く。十二月の冷気が足元から入ってきた。
駐輪場のポールに、紙札が一枚、貼りつけてあった。番号は「0000」。見たことのない番号だ。裏返すと、また手書き。
「本品、党ドクトリン照合を経由せず納入。受領証として本札を保管のこと。問い合わせ不要」
『……真帆』
母さんの声が、少しだけ硬くなった。
『それ、触らないほうがいいかもしれない』
「なんで」
『照合を経由しないって、つまり——』
つまり、署名なしで物が動いている。ドクトリンの外側を、誰かが意図的に通している。
あたしは紙札を指で摘んだまま、しばらく動けなかった。
使い捨てカメラ。たかが二十四個。現像しなければただのプラスチックの箱。でも、署名なしで届くということは、署名なしで届けられる経路があるということで——
蛍光灯が、また、ちかちかと瞬いた。
バックヤードに戻ると、eペーパー端末の画面が勝手に更新されていた。先ほどの「紙伝票にて対応」のメモが消えている。履歴ごと。
『……型番、メモした?』
母さんが、わざとらしく話題を変えた。
あたしはポケットに紙札を押し込んで、「FL40SS」と呟いた。
棚の上の使い捨てカメラの箱が、蛍光灯の明滅に合わせて、影を伸ばしたり縮めたりしている。二十四個。誰が撮って、誰が現像するのだろう。
問い合わせ不要、と書いてあった。
だから聞かない。聞かないまま、あたしは検品シールを一枚ずつ貼っていく。