緑の受話器、あるいは二二時の不在通知

──平成0x29A年03月17日 22:00

 平成〇x二九A年三月十七日、二十二時。店内の有線放送からは、もう何度聴いたか分からない九〇年代のヒット曲が、ひどく掠れた音質で流れている。コンビニの自動ドア――スマートドアが、客もいないのに「ウィーン」と間抜けな音を立てて開閉を繰り返していた。

「凪、またユビキタスセンサー網の同期がズレてるわよ。さっさと再起動(リブート)しなさい」

 左耳のデバイスから、姉の葵の声が聞こえる。十九歳で死んだ時のままの、少し勝ち気な声だ。彼女は私の近親人格エージェントとして、この退屈な夜勤を監視している。

「分かってるよ。でも、店長が『党』のアルゴリズム署名が降りるまで触るなって。不整合が起きると、来月の配給ポイントが削られるだろ」

 私は、iモード的なドット絵が並ぶレジ端末の画面を叩いた。画面の隅には「第百十二内閣ユニット・閣議待機中」のアイコンが、ローディングを繰り返している。第四〇二ヘゲモニー期の現在、社会のあらゆる微細な挙動には、ブロックチェーン化された「内閣」の承認が必要だった。

 不意に、スマートドアが固まった。半開きの状態で、完全に沈黙したのだ。三月の冷たい夜気が店内に流れ込み、合成タンパク質の肉まんの匂いをさらっていく。それと同時に、視界の端に赤い通知が躍った。

【緊急連絡:学校の連絡網(旧市街第三地区)】
『インフラ異常検知。次の方へ回してください。スマートドアの物理ロック、及びバイオメトリクス認証の停止を確認……』

「連絡網? 古臭い形式で送ってこないでよ」と私は毒づいた。かつての「平成」をエミュレートした社会安定化プログラムは、時折こうした古い文化様式をシステム通知に混線させる。

「凪、それどころじゃないわ。公衆電話が鳴ってる」

 葵の言葉に、私は店の隅に置かれた緑色の筐体に目をやった。今やインテリアと化した、テレホンカード専用の公衆電話。それが、聞いたこともないような甲高いベルを鳴らしていた。デジタルネットワークから切り離されたはずの銅線が、物理的に震えている。

 私は導かれるようにレジを出て、受話器を取った。その瞬間、視界が白濁し、網膜に巨大な「署名」の文字が浮かび上がった。

【あなたは第〇xB二七内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました。任期:五分間】

「は……?」

 受話器からは声ではなく、無数のささやき声が聞こえてきた。それは国民全員に薄く引き延ばされた、遺伝子ネットワークの共鳴音だった。私は無意識に、受話器を耳に押し当てた。

『……承認シマス……承認シマス……』

「凪、早く! 党ドクトリンの差分リクエストが来てるわ。スマートドアの強制パッチ、署名して!」

 葵が叫ぶ。目の前の空間に、暗号化されたアルゴリズムの断片が浮かび上がる。私は総理大臣として、ただ一言「承認」と念じた。私の網膜に焼き付いた遺伝子コードが署名として機能し、連鎖システムに刻まれる。

 カチリ、と音がして、スマートドアが正常に閉じた。公衆電話のベルは止まり、再び静寂が訪れる。五分間の任期は、一瞬で終わった。

「……直ったわね。お疲れ、総理大臣殿」

 葵の声に、私はふうと息を吐いた。受話器を置くと、指先に冷たい金属の感触だけが残った。有線放送は、いつの間にか〇〇年代のアイドルソングに切り替わっている。

 窓の外を見ると、壊れかけのセンサーが夜空の星を「不審な発光体」として検知し、虚空に向かって警告ログを吐き出し続けていた。誰も見ていない、誰も直さない。世界はこうして、小さな故障を積み重ねながら、永遠に終わらない平成を演じ続けている。

 私はレジに戻り、賞味期限の切れたデジタル・タピオカの在庫を、ただ淡々とスキャンし始めた。