シール機は50度数の夢を見る

──平成0x29A年11月05日 15:40

平成0x29A年11月05日、15時40分。

第7学術公園の並木道には、電子的な秋風が吹いていた。視界の端で「メタバース広場」の接続ステータスが緑色に点滅している。現実の紅葉と、ARレイヤーで重ねられた極彩色のネオン看板が混ざり合い、私の平衡感覚を少しだけ揺さぶる。

「あーもう、明日香! 角度が甘いって。アゴ引いて、上目遣い!」

頭蓋の奥で、姉さんの声が響く。私の担当エージェントである篠原舞。享年19。バイク事故で死んでからもう5年になるが、彼女の時計は「最強のギャル」だった頃で止まっている。

「まだ撮らないよ。レン君、来てないし」

私は目の前に鎮座する巨大な筐体――『プリント倶楽部・復刻09年式改』を見上げた。行政の文化保全予算で維持されているこの機械は、ブロックチェーン直結のくせに、支払いが絶望的にアナログだ。

私はポケットから、プラスチックの薄いカードを取り出した。テレホンカード。表面には競走馬の写真。残り度数は50。今の貨幣価値に換算すると馬鹿げたレートになるが、この「儀式」を経なければ、筐体は起動しない。

ふわり、と甘酸っぱい匂いが鼻をかすめる。筐体横に設置された「匂い再現デバイス」が、1990年代の制汗スプレーとグレープフルーツの香りを合成し、周囲に散布しているのだ。姉さんが「エモい」と評するその匂いは、私には少し鼻につく化学物質の集合体に過ぎない。

「来た! 3時の方角!」

姉さんの警告と同時に、レン君が小走りでやってくるのが見えた。彼は制服のブレザーを着崩し、視界には最新型の透過バイザーを掛けている。この時代の「平成エミュレート」における、優等生的な着こなしだ。

「ごめん、明日香。第408内閣ユニットの解散処理で電車が止まってさ」
「ううん、大丈夫。私も今来たところ」

嘘だ。本当は30分前から待っていた。姉さんが脳内で「乙女心〜!」と茶化すのを無視して、私はテレホンカードを筐体のスロットに差し込んだ。

『ジジッ、カードを確認シマシタ。』

無機質な音声と共に、カーテンが開く。狭い撮影ブースに入ると、そこは外のメタバース広場とは遮断された、密室の静寂があった。

「機種、古いやつだね。ちゃんと盛れるかな」
「党ドクトリンの補正が入るから大丈夫だよ。たぶん」

レン君と肩が触れる。心拍数が上がる。撮影カウントダウンが始まった。

その瞬間、ブース内の照明が赤く明滅した。

『緊急速報。内閣総理大臣の交代を確認。新総理の権限により、今後5分間、全ての公的記録媒体の背景は“富士山と鷹”に統一サレマス』

「はあ? 何それダサすぎ!」姉さんが叫ぶ。

画面上の選択肢が強制的に書き換わり、私たちは昭和の銭湯のような背景を背負わされることになった。レン君が吹き出す。

「なんだよこれ、縁起良すぎだろ」
「……最悪」

シャッターが切られる。パシャ、パシャ、パシャ。私たちは笑い転げながら、変なポーズを連発した。平成の情緒もへったくれもない、ランダム選出された総理大臣の悪戯のような5分間。

撮影が終わり、落書きコーナーへ移動する。タッチペンを持つ指が震えた。ここで何を書くか。姉さんが「イケ、書いちゃえ!」と煽ってくる。

私はタッチペンを走らせた。しかし、感圧式の画面は反応が悪く、文字は途切れ途切れになる。焦る私を見て、レン君が自分のペンを重ねてきた。

「これ、反応悪いな。一緒に押す?」

彼の手の体温が伝わる。匂い再現デバイスが、今度は微かに石鹸の香りを吐き出した。

印刷口から、シールが出てくる。画質は粗く、背景は富士山。そして二人のペンの軌跡がバグって重なり、偶然にも「スキ」という文字に見えなくもない、歪な線を描いていた。

「……あ」

レン君がシールを覗き込み、耳まで赤くする。
私は、度数の減ったテレホンカードを握りしめたまま、小さく息を吸った。

「ねえ、レン君。これ、バグじゃないかも」

姉さんが脳内で「よくできました」と、指笛を鳴らした気がした。