客室二〇四、カセットテープの密約
──平成0x29A年05月15日 20:40
スマートグラスの視界右端で、宿泊客のストレス値が赤く点滅している。時刻は二十時四十分。夕食後の最もリラックスすべき時間帯に、第十八観光ブロックの民宿『松風』の一室は、緊迫した空気に包まれていた。
「違うんだよ、ボーイ。音が綺麗すぎる」
浴衣を着崩した客が、カラオケセットのマイクを放り出して嘆いた。彼は遠方の第百二都市ユニットから来た富裕層で、『真正な平成体験』を求めて大金を払っているマニアだ。
「お客様、こちらは最新の磁気エミュレーション技術を用いておりまして、一九九〇年代当時の周波数特性を完全に……」
「だから、それがダメなんだ!」
客がテーブルを叩く。その拍子に、ラミネート加工された本日のオプションメニュー表が床に落ちた。いや、それはメニュー表ではない。裏面にスーパー『ライフ』の特売情報――サンマ一尾九十八円――が印刷された、古びた折込チラシだ。この時代、紙のチラシは高級な演出用小道具である。
『健太、客の言う通りにしな。こいつは〝ヨレ〟を欲しがってるんだよ』
脳内でしゃがれた声が響く。私の担当エージェントであり、かつてこの民宿を一人で切り盛りしていた祖母のウメだ。死してなお、その接客勘は鋭い。
「でもばあちゃん、機材の意図的な劣化設定は、ブロックの文化財保護法で……」
『馬鹿だねえ。マニュアル通りの接客で客が喜ぶか? 心意気を見せるんだよ』
私はため息をつき、客に向き直った。
「……かしこまりました。では、特別対応を」
私は床の折込チラシを拾い上げた。一見ただの印刷物だが、サンマの画像の網点には、非公式のメンテナンスモードへ入るための量子署名コードが隠蔽されている。業界の公然の秘密だ。
スマートグラスでチラシのサンマを凝視する。認証プロセスが走り、視界に『警告:非推奨設定』の文字が浮かぶ。私は客に見えないよう、手元の端末で「テープ伸び率」と「ワウ・フラッター」の数値を最大まで引き上げた。
デッキの中のカセットテープが、キュルキュルと苦しげな音を立てる。再び曲を再生すると、スピーカーからは不安定に揺れ、高音が潰れた、実に劣悪なサウンドが流れ出した。
「これだ! この頼りない音こそが、サウダージなんだよ!」
客は感涙し、再びマイクを握りしめた。演歌のイントロが、波打つように歪んで流れる。
その時だ。視界の中央に、極彩色の桐紋がポップアップした。
『おめでとうございます。ランダム選出の結果、貴殿は今後五分間、第49281期内閣総理大臣に任命されました』
心臓が跳ねる。数十万分の一の確率。今この瞬間、私は国家の最高意思決定権を持つ。予算の承認も、条約の批准も、思考一つで決済できる。
だが、私の目の前には、涙目で「もう一曲歌いたいが、延長料金を払う小銭がない」とポケットを探る浴衣の男がいる。この民宿は厳格な前払い制で、システム上の延長手続きは極めて煩雑だ。
『健太、時間は金だよ。粋に計らいな』
祖母が笑う。
私は総理大臣としての第一号かつ唯一の閣議決定を行った。
国家予算コードの一部を書き換え、目の前のカラオケ機器に「無限延長フラグ」を付与する。内閣ユニットの並列処理が唸りを上げ、瞬時に承認された。物理的な硬貨など不要だ。
「お客様、延長料は……サービスしておきました」
「おお! なんというホスピタリティ!」
客は大喜びで次の曲を予約した。曲目は『明日があるさ』。テープは相変わらず伸びきったような音で、間抜けに揺れている。
五分後、私はただの民宿従業員に戻った。国の行く末を決める権利を、たった百円程度のカラオケ代に使ってしまった罪悪感はない。むしろ、少し歪んだ演歌の響きが、不思議と心地よかった。