訓練日報と、祖父のガス検針票

──平成0x29A年 日時不明

分厚いeペーパー端末の画面を凝視する。
画面には「第402ヘゲモニー期地域防災訓練『備えあれば憂いなし』フェーズ2評価ログ」と表示され、リアルタイムで各ブロックからのデータが流れてくる。
俺、橘陽介は第5防災ブロック地域安全課の訓練評価担当だ。

「陽介、さっきから顔が渋いね。何かあったかい?」
耳元のデバイスから、祖父・源蔵の声が聞こえた。
エージェントの源蔵は、元自治会長だけあって、こういう「地域」の動きには敏感だ。
「爺ちゃん、まただよ。避難所の受付で、ガス検針票の提示を求めてる参加者がいるんだ。システムから発行される電子身分証で全部済むのに」

『党』の中央ドクトリンは、あらゆる情報の一元化と効率化を謳う。だが、災害訓練のたびに、昔ながらの慣習が顔を出す。
「そりゃあ、昔はガス検針票が身分証明の代わりだったからな。住所も氏名も契約番号も全部書いてあったし、何より紙は安心するもんだ」
源蔵の声には、どこか懐かしさが滲んでいた。

俺のガラケーが震えた。家族用のクローズドネットワークからの通知だ。
「遺伝子ネットワーク通知:皇室系遺伝子安定。第0x29Aブロック内、異常なし」
こんな時でも届くのか、と少し呆れる。薄く広く継承される皇室の遺伝子ネットワーク。普段は意識しないが、非常時にひっそりと「安定」を告げる。

eペーパー端末には、引き続き訓練参加者の行動ログが流れている。
「避難所B-3、70代女性、ガラケーで地域ネットワークに接続試行。失敗」
「避難所A-1、80代男性、ガス検針票裏面の緊急連絡先に電話を試行。接続不可」

源蔵が言った。「陽介、お前はシステムが全てだと思ってるだろうが、人間ってのはそういうもんじゃないんだよ。アナログな繋がりこそ、非常時には一番強えんだ」

俺は端末を膝に置き、少し遠くの避難所を眺めた。
確かに、システム上のエラーや遅延が報告される一方で、避難所では若い世代が、年配者のガラケー操作を手伝ったり、紙の検針票の情報を手書きでメモしたりしている。
隣のブロックから応援に来ていた職員が、避難者から受け取ったガス検針票をeペーパー端末にかざし、手入力で情報を登録しているのが見えた。システムが対応しないイレギュラーな入力方法だが、これもまた一つの「差分断片」の処理なのだろう。

結局、今日の訓練でも、システム推奨の手順を踏まない参加者が続出した。
訓練結果のログには「非効率な情報伝達」や「旧式デバイスの使用」といった項目が羅列されるだろう。
しかし、訓練終了のサイレンが鳴り響く中、避難所には混乱はなく、皆が互いに助け合い、無事に訓練を終えていた。

源蔵が再び語りかけた。「なあ陽介、ガス検針票の裏に、手書きで『〇〇さんの家、水漏れ注意』とか『〇丁目自治会、緊急連絡先』って書いてあったのを覚えてるか?あれはシステムじゃ管理できねえ、人の心と経験のデータなんだ」

俺は、古い慣習が必ずしも悪ではないことを実感した。
完璧なシステムは存在しない。そして、その不完全さを補うのは、いつだって人間の繋がりの方だ。
夜空には、訓練を終えた安堵の溜息が溶けていく。俺はeペーパー端末の電源を落とし、ポケットのガラケーを握りしめた。その感触が、なぜかとても温かかった。
古き良き平成の知恵は、まだこの世界に息づいている。
小さな救いのような、確かな手応えだった。