ノイズは差出人不明

──平成0x29A年01月26日 02:10

午前二時を回った検問所に、人の気配はほとんどない。

冷たい合成音声が、がらんどうの空間に虚しく響いている。
『生体情報ヲ認証シマス。前面ノパネルニ顔ヲ向ケテクダサイ』

俺は監視ブースの椅子に深く沈み込み、バイオメトリック改札を通過していく数少ない影を、ぼんやりと眺めていた。
向こうは産業ブロック、こちら側は居住ブロック。二つの世界を隔てるガラスの壁が、俺の職場だった。

「隼人、また魂が抜けてる」

網膜ディスプレイの隅で、妻の美月がため息をついた。彼女は三年前に死んだ。今は俺付きのパーソナル・エージェントとして、システムの中に生きている。

「面白いことなんて、この箱の中にはないさ」
俺がそう返すと、ちょうど一人の男が改札で立ち止まった。認証エラーかと思ったが、男は慌ててポケットを探り、床に落ちた一枚のカードを拾い上げる。スタンプを捺すタイプの、くたびれた紙のポイントカードだった。
男はそれを大事そうに財布に戻すと、何事もなかったかのように改札の向こうへ消えていった。

「アナログなもの、まだ使ってる人いるんだね」
美月が面白そうに言う。彼女はそういう、古くて不便なものが好きだった。

その時、俺の業務用端末が静かに警告音を立てた。

『通達:第0x29A8C内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期は現在時刻より5分間です』

またか。数年に一度回ってくる、迷惑な通知。すぐに政策変更リクエストのウィンドウがポップアップする。

『Request-ID: Δ77-B4。ブロック間移行時の身体検査プロトコルに関する軽微な変更。現行『レベル3』から『レベル3-Alpha』への更新を要求』

添付された差分データは、素人目には意味不明な文字列の羅列だ。いつものように「党」中央ドクトリンに基づく暗号アルゴリズム署名も添付されている。問題なし。思考を止めて承認ボタンを押すだけの、簡単な作業。

「待って、隼人」
美月の声が、俺の指を止めさせた。
「その差分データ、一番下までスクロールして」

言われるがままに操作すると、ドクトリン署名のさらに下に、もう一つ、小さなハッシュ値が埋め込まれていた。

「これ、どこかで…」美月が記憶領域を検索している。「…あ。思い出した。正月に届いたデジタル年賀状よ」

年賀状?ああ、そういえば遠い親戚から届いていた。差出人の名前も思い出せない、干支の動物が描かれただけの素っ気ない一枚。

「あの画像のメタデータに、これとそっくりの文字列が隠されてた。党の署名じゃない、もっと古い形式の…個人の暗号鍵みたい」

残り時間は二分を切っている。これは何だ?ただのシステムエラーか、それとも誰かが仕掛けた罠か。

不意に、その年賀状の差出人を思い出した。ずいぶん前に「党」のやり方がおかしいと言い出して、どこかへ消えた叔父だ。まだ俺が子供の頃、いつも「どんな立派なシステムにも、作った人間だけの裏口が残ってるもんさ」と笑っていた、あの叔父だ。

「…どうするの、隼人?」
美月の声が静かに響く。

俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。そして、震える指で「承認」のボタンを、強く押し込んだ。

『承認ログを記録しました』

システムメッセージが表示され、ウィンドウが閉じる。五分間の任期は、終わった。

何も変わらない。そう思った瞬間だった。

検問所の外で、今まで聞いたことのない微かな警報音が、一度だけ鳴って、すぐに消えた。
静寂が戻る。そして、いつもと同じ合成音声が、再び流れ始めた。

『生体情報ヲ……再認証シマス。前面ノパネルニ顔ヲ……向ケテクダサイ』

言葉と言葉の間に、ほんの僅かな、ノイズのような間が生まれていた。俺は、改札の向こう側に広がる暗闇を、ただじっと見つめることしかできなかった。