プールサイドの残響
──平成0x29A年 日時不明
塩素の匂いが鼻の奥にしみる。もう慣れたはずなのに、毎朝この瞬間だけは一瞬だけ目を閉じてしまう。
あたしは更衣室のロッカーを閉めて、腰にタオルを巻いたまま監視台へ向かった。市民プール「さざなみ」の開館は九時。まだ誰もいない水面が蛍光灯を反射して、天井にゆらゆらと光の模様を描いている。
ベルトポーチのMDウォークマンからイヤホンを外し、代わりにガラケーを開いた。画面の左上に小さく「倫理検査中」のアイコンが点滅している。叔父さん——正確には亡き叔父・黒川誠一の人格エージェントが、今週の月曜から法定倫理検査に入っている。
代わりに割り当てられた代理エージェント九号は、声に癖がない。それがかえって落ち着かない。
「おはようございます。本日の水温は二九・二度、塩素濃度〇・四。基準内です」
ガラケーのスピーカーから淡々と流れる合成音。叔父さんだったら「ま、ぬるめの風呂だな」とか言うところだ。叔父さんは生前、この市民プールの設備管理をしていた。あたしが監視員になったのも、たぶんその影響だと思う。
監視台に登ると、プールサイドに並んだビート板が目に入る。壁に貼られた「水泳帽着用」のポスターは色褪せて、下半分がめくれている。その横に、サブスクリプション契約の案内がラミネート加工で貼ってある。「月額八〇〇円でロッカー使い放題&シャワー温度プレミアム」。登録はiモード対応端末から。QRコードも一応ついているけど、読み取れる機械を持っている人を見たことがない。
九時五分。最初の利用者が来た。常連の安藤さん、七十代。ゴーグルを額に載せたまま準備体操をしている。
ガラケーが震えた。
画面を見ると、内閣ユニット第0x7A3F1から通知が来ている。
「黒川日和殿。貴殿は本時刻より三〇〇秒間、第0x7A3F1内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました。閣議案件一件。承認/非承認を選択してください」
また来た。三回目だ、今年。
案件を開く。「公営プール施設における水温基準の〇・三度引き上げに関する政策変更リクエスト」。差分断片が表示される。現行二八・〇〜三〇・〇度の上限を三〇・三度に。申請元はどこかの地区の高齢者福祉ステークホルダー。
「代理九号、見解は」
「ドクトリン適合性を照合中です。——適合率九八・七パーセント。承認に障害はありません」
叔父さんだったら何て言っただろう。たぶん「〇・三度ぐらい、体感じゃわからんよ」と笑っただろう。でもそのあとに「ただな」と付け加える人だった。設備屋の勘で、数字の裏にある配管の負荷とか、ボイラーの寿命とか、そういうことを呟く人だった。
代理九号は何も付け加えない。
承認ボタンを押した。ドクトリン署名のアルゴリズムが走り、三秒でハッシュが返ってくる。あっけない。画面に「任期終了まで残り二四七秒」と出る。もう案件はない。
あたしはガラケーを閉じて、プールを見下ろした。安藤さんがゆっくりと水に入っていく。水面が揺れて、天井の光模様が崩れて、また静かに戻る。
あと四分ほど、あたしは総理大臣だ。
MDウォークマンのイヤホンを片耳だけ戻した。ディスクの中で、浜崎あゆみが何かを叫んでいる。歌詞は聞き取れない。塩素の匂いと、水の跳ねる音と、安藤さんの規則正しいクロールの息継ぎだけが、やけにはっきり聞こえた。
ガラケーが最後にもう一度震えて、「任期満了。お疲れ様でした」と表示された。
あたしは「お疲れ様でした」と、誰にともなく呟いた。