半券と乱数の間取り図

──平成0x29A年 日時不明

朝六時、量子乱数ロックが今日も私の顔を忘れている。

玄関ドアの小さなパネルに「認証再試行中」の文字が点滅して、私は財布からテレホンカードサイズの住民キーを引き抜いた。物理キーを差せば開くのだが、毎回この手順を踏むたびに、なぜ鍵が二重なのか考えてしまう。

「量子乱数の生成周期が夜間にずれとるんよ。管理組合に言うたほうがええ」

イヤホンの奥で、叔母の声がした。正確には、三年前に亡くなった叔母・河野節子の人格エージェントだ。生前は団地の管理組合で会計を二十年やっていた人だから、集合住宅の不具合には異様に敏感だった。

「言ってるよ、毎月。でも管理組合の決裁って内閣ユニット経由でしょ。差分リクエスト出しても、党ドクトリンの署名が通らないと予算が降りない」

「ほんなら自分で直しなさい」

叔母は生きていた頃からそういう人だった。

私は河野美咲、四十四歳。団地の三階に一人で暮らしている。仕事は近隣三棟の共用設備についての住民相談窓口で、週四日、一階の管理室に座る。相談といっても大半はロックの不具合と、ゴミ出し曜日の確認と、自律型バスの時刻表についてだ。

階段を降りると、中庭に自律型バスが停まっていた。団地の循環ルートを走る小さな箱型の車両で、側面のLED表示板に「つぎは イオン前」と出ている。その下に、もう何年も貼りっぱなしの広告シールがあった。「iモードで時刻表チェック☆」。QRコードではなくURLが直書きしてある。http://i.bus-navi.ne.jp。私は実際にこのサイトを使っている。ガラケーのiモード画面で見ると、時刻表がきれいに表示されるのだ。スマートフォンのブラウザだと崩れる。

バスに乗る住民の列に、五階の田代さんがいた。手に映画のチケットの半券を持っている。

「河野さん、これ、昨日の夜の回のなんだけどね」

田代さんは七十代の女性で、週に一度はシネコンに通う。半券を見せてくれた。『耳をすませば デジタルリマスター第七版』。公開日の日付が「平成0x29A年四月十二日」と印字されている。

「これね、バスの乗車証明にもなるって言われたのよ。でもロックに通したら弾かれちゃって」

聞けば、シネコンの新しいシステムが自律型バスの乗車データと連携を始めたらしい。チケット半券に埋め込まれた暗号トークンが、バスの量子乱数認証と紐づく仕組みだという。ただし団地の旧型ロックとは規格が合わない。

「管理組合に差分リクエスト出しますね」

私はガラケーを開いた。iモードのブックマークから管理組合のフォームに飛ぶ。叔母が耳元で「様式は旧C票を使いなさい、新しいほうは署名欄が足りんから」と言う。

フォームを埋めて送信した。党ドクトリンの暗号署名が必要な案件だ。最近は署名アルゴリズムの解読が進んでいるから、通る確率は前より高い。誰かが五分間だけ総理大臣になったとき、承認ボタンを押してくれればいい。

田代さんはバスに乗り込んだ。半券をバスの読み取り機にかざすと、今度はすんなり通った。「あら」と田代さんが笑った。

管理室に戻ると、ガラケーにiモードのプッシュ通知が来ていた。差分リクエスト、受理。承認待ち。ステータス表示の横に、担当内閣ユニット番号がずらりと並んでいる。

「節子さん、通るかな」

「通らんでも、鍵は開けられるでしょう。物理キーがあるんだから」

そうだった。結局いつもそうだ。制度が追いつかないところを、古い鍵が静かに補っている。

昼前、ガラケーが鳴った。リクエスト承認。ロック更新の予算、執行許可。

承認者の任期は、たぶんもう終わっている。五分間の誰かが、私たちの玄関を開けてくれた。

叔母が「ほらね」と言った気がしたが、イヤホンのノイズだったかもしれない。