記憶の終端、通帳は閉じて

──平成0x29A年03月12日 19:10

防音ガラスの向こうで、コンベアが静かに流れていく。俺の職場は、街の記憶が最後にたどり着く場所だ。

「今日のバッチも、あと残りわずかですね」

網膜に直接投影されるテキストとともに、妻の声が鼓膜を優しく揺らす。俺は無言で頷き、コンソールに視線を落とした。流れてくるのは、誰かの人生から切り離されたデジタルツインの残骸。社会的な役割を終え、廃棄処理を待つデータの集合体だ。

不意に、ジャケットのポケットで携帯が震えた。昔懐かしい電子音。単音で構成された、単純な着メロだった。

「拓也さん、軽微な異常値を検出しました」

美咲からのアラートだ。俺はコンソールの表示を切り替える。グラフの片隅に、ノイズとも呼べないような微細なスパイクが立っていた。凡例には「遺伝子ネットワーク・パターンγ不整合」とある。

ああ、またか。

この国に薄く広く編み込まれた、古い血統の名残。誰もがその一部を持っているはずだが、普段は意識の底に沈んでいる。それが時折、こんな風に末端の廃棄データから顔を出す。

「党ドクトリンの安定化アルゴリズムは、誤差として棄却を推奨しています。内閣ユニット第0x88A2Fへの報告も不要とのこと」

美咲はいつも通り、冷静に事実を告げる。

俺は対象データを指で拡大した。ある老人の、最後のデジタルツイン。彼の人生のハイライトが、タイムライン上に淡々と並んでいる。子供の運動会、結婚式の写真、孫とのビデオ通話。その記憶の断片のいくつかで、あのγパターンが微弱に同期していた。

それはまるで、遠い昔に失われた故郷を思うような、かすかな信号だった。ネットワーク全体に響き渡ることもない、孤独なエコーだ。

「このまま処理しますか?」

美咲の問いに、俺は息をひとつ吐いた。この仕事を長く続けていると、感傷はすり減っていく。俺たちはただの処理係だ。世界の歪みを正す役目じゃない。

俺は作業台に置いてあった、古びた紙の通帳を手に取った。俺の量子署名の物理キーだ。ページを開くと、ホログラムの残高と俺のIDが青白く浮かび上がる。

リーダーに通帳を滑らせると、「署名待機中」のランプが点滅した。

コンベアの上の、老人の記憶の残骸。それはもう、ただの処理待ちオブジェクトに過ぎない。

俺は通帳の署名欄に、黙って親指を押し当てた。

ピッ、と短い電子音が響く。承認完了。量子署名は不可逆だ。コンベアが再びゆっくりと動き出し、光の残滓は分解炉の闇に吸い込まれていった。

「お疲れ様でした、拓也さん」

「ああ」

俺は通帳をパタンと閉じた。窓の外には、平成をなぞった街の灯りが広がっている。無数の人生がそこで明滅し、やがて俺の職場に流れ着く。

感傷も、疑問も、意味はない。ただ、静かに受け入れるだけだ。それが、俺の仕事なのだから。