埃と光と、微かな署名

──平成0x29A年08月21日 17:50

蛍光灯がチカチカと瞬く。複合施設「平成デパート」のバックヤードは、夕方になると独特の匂いがする。洗剤の化学的な香りと、古い機械油、そして一日中動き回った人々の汗が混じり合った、鈍い生活の匂い。
俺は休憩室のプラスチック椅子に深く腰掛け、支給端末で分散SNSのタイムラインをぼんやりと眺めていた。

「亮、サボってんのか」

脳内に、祖父・吾郎の声が響く。享年七十二、老衰。元職人で、どんな小さな仕事にも手抜きを許さなかった祖父の人格エージェントは、俺がこうして息を抜くたびに小言を言う。
「休憩っすよ、じいちゃん。もうすぐ18時だ」
「だとしても、その端末から得られる情報で、お前は何を『得て』いるんだ?」

タイムラインには、今日入ったらしいスーパーの折込チラシの画像が流れてくる。特売の卵がどうとか、デパ地下の限定スイーツがどうとか。ほとんどがどうでもいい情報だ。端末を閉じて、壁に貼られた色褪せた公衆電話を見つめた。あの頃は、たった数分の通話のために並んだりもしたんだっけ。

その時、端末が突如、強い振動を発した。画面いっぱいに表示されたのは、見慣れないアイコンと、眩しい光のエフェクト。
『第0x1F3D2内閣ユニット、内閣総理大臣に選出されました。任期は5分間です』

「またかよ……」
俺は小さく呻いた。第402ヘゲモニー期に入ってからは、このランダム指名が異常に増えていると聞く。党ドクトリンのアルゴリズムが半ば公然と解読されているせいだと、裏アカウントの投稿で読んだことがある。

「亮、落ち着け。こういう時こそ、冷静な判断が求められる」
祖父エージェントの声が、いつもより幾分か穏やかだ。普段は「お前ならできる!」と無闇に激励するくせに。

眼前には、たった一つの政策変更リクエストが表示された。
『公共施設における環境衛生業務委託契約の見直しに関する件。具体的には、清掃スタッフの休憩時間における、業務関連情報参照義務の撤廃について。』

一見すると、現場の負担軽減に見える。だが、この「参照義務の撤廃」は、これまでシステムが自動で把握していた業務関連情報の学習機会を奪い、結果的に業務効率の低下や、最悪の場合、必要な情報を見落とすリスクを孕む。それは、党ドクトリンが「社会安定に最適」とする理念に反するはずだ。

「どうする、亮? 承認すれば、現場は一見楽になる。非承認なら、このリクエストはまた別の総理に回されるだけだ」

バックヤードの通路を、自律警備ドローンが静かに巡回していく。その無機質な光が、俺の顔を照らした。誰かがシステムに穴を開けようとしている。俺の5分間は、その「穴」を塞ぐか、それとも開けたままにするかの選択だ。

「党ドクトリンは、あくまで『安定』を謳っている。だが、それが本当に誰のためなのか、見極めが必要だぞ」
祖父の言葉が重く響く。形骸化しつつあるとはいえ、その理念はまだ生きている。俺の判断が、未来の誰かの首を絞めるかもしれない。あるいは、わずかながらも彼らを救うかもしれない。

俺は意を決し、指を画面の承認ボタンへと伸ばした。しかし、直前で止める。そして、非承認ボタンを選択した。
「……非承認、と」

『閣議決定:非承認。署名完了。任期終了。』

端末は元の待機画面に戻った。総理に選ばれる前の、いつもの日常がそこにある。たった5分間の出来事。だが、俺の胸には、鉛のような重さと、微かな希望が残った。

「……そうか。お前は、この埃一つにも、未来を見ていた、ということか」
祖父エージェントが静かに呟いた。その声は、いつもの小言とは違う、何かを託すような、切ない響きを帯びていた。俺は立ち上がり、清掃用具のワゴンを押して、再びフロアへと向かう。この背中には、祖父の、そして見知らぬ誰かの期待が、そっと乗っているような気がした。

背後の公衆電話が、過去の記憶のように静かに佇んでいる。俺はまだ、未来へと続く道を、ただ掃除するだけだ。

平成0x29A年08月21日 17:55。