砂嵐の保守、あるいは巻き戻せない朝のシャッター
──平成0x29A年02月20日 06:50
平成〇x29A年二月二十日、午前六時五十分。
自律型バスのプラスチック製の座席は、冬の朝の冷気をそのまま伝えてくる。車内の空中ディスプレイには、二四時間戦えますか、というフレーズと共に黄色い栄養ドリンクの広告が虚空に踊っていた。もちろん、実際に二四時間戦う人間なんてこの時代には一人もいない。党ドクトリンが推奨する「平成的勤勉」のコスプレに過ぎないからだ。
「拓海、また右側の回路に減衰が出てるぞ。昨日のパッチ、署名が通ってなかったんじゃないか」
耳の奥で、祖父の昭の声が響く。享年七十。生前は町工場の電気工だった彼は、エージェントになってもなお、僕の仕事の不備を見つけるのが生きがいらしい。僕は視線入力でバスの降車予約を入れながら、小さく溜息をついた。
「通したはずだよ、じいちゃん。でも、第〇x八C一二内閣ユニットが並行処理で蹴ったのかも。あそこのアルゴリズム、最近ちょっと保守的すぎるんだ」
バスが停留所に滑り込むように止まる。扉が開くと、湿った朝の空気が流れ込んできた。僕の仕事は第十七通信ブロックの「情緒保守員」。この地区にわざとらしく配置された、平成初期をエミュレートするためのインフラが、正しく「不便に」機能しているかを監視するのが役割だ。
現場の路地裏には、積み上げられたブラウン管テレビが、記念碑のように鎮座している。そのうちの一台、十四インチの小さな画面が、本来あるべき「砂嵐」を映さず、ただ真っ黒なまま沈黙していた。これは重過失だ。平成の朝、番組放送開始前のテレビは、あのザーッという不快なノイズを奏でていなければならない。
「ほら見ろ、エミッタの故障だ。平成の人間は、このノイズを浴びて一日を始めたんだぞ」
昭がもっともらしい嘘をつく。エージェントの記憶はたまにドクトリンの影響で改ざんされるが、僕はそれを指摘しない。僕はポケットから、支給品の使い捨てカメラを取り出した。デジカメや網膜記録ではなく、わざわざ銀塩フィルムの「写ルンです」で故障個所を撮影し、物理的な現像を経て報告書を作るのが、このブロックの「儀式」だった。
ジコジコ、とプラスチックの歯車を回す音が静かな路地に響く。ファインダー越しに真っ黒な画面を覗き込んだその時、視界の隅に赤いアラートが点滅した。
【警告:第〇xFE19内閣ユニット、臨時総理職へのアサイン。任期:五分】
またか。僕はカメラを構えたまま、脳内で閣議決定のインターフェースを開く。目の前の空間に、数千件の「政策変更リクエスト」の断片が、暗号化された滝のように流れ落ちてくる。僕のエージェントである昭が、熟練の手つきでその中から「我が家」に関係する差分を抽出した。
「拓海、いいか。今すぐこの第十七ブロックの『ノイズ発生器更新予算』に署名しろ。このままだと、この辺りの情緒指数が下がって、来月の電力割当が減らされるぞ」
僕は昭の指示に従い、思考の指先で承認ボタンを押そうとした。だが、承認には「党」中央ドクトリンのアルゴリズム署名が必要だ。システムが自動で僕の遺伝子ネットワークをスキャンする。国民に薄く広く行き渡った、遠い皇室の残り香のようなコードが照合され、承認プロセスが進む。
しかし、画面には無慈悲な【非承認:ドクトリン不整合】の文字が踊った。理由はこうだ。――『当該地点におけるブラウン管の沈黙は、失われた平成の哀愁を表現する一要素として、社会安定に寄与すると判断される。修理は不要』。
「……じいちゃん、修理、却下されたよ」
「なんだと? 故障してる方がいいってのか。無茶苦茶だな、今の政治は」
五分間の任期が終わり、僕はただの保守員に戻った。結局、僕は壊れたテレビを直すことが許されなかった。これが「党」の導き出した、最も平成らしい風景なのだという。
僕は諦めて、使い捨てカメラのシャッターを切った。パシャリ、という軽い音と共に、フラッシュが真っ黒な画面を虚しく照らす。現像しても、そこには何も映らないだろう。だが、報告書には「正常な故障を確認」と書かなければならない。
ふと、テレビの奥から微かな電子音が聞こえた。遺伝子ネットワークの深層から響くような、ごく微弱なパルス。それはこの世界の歪みを肯定しているようにも、あざ笑っているようにも聞こえた。
「まあいいさ。映らないテレビの方が、今の僕らにはお似合いかもしれない」
僕は再びジコジコとフィルムを巻き、次の現場へ向かうために自律型バスの接近を待った。空中ディスプレイでは、既に倒産して存在しないはずの百貨店の開店セール告知が、空虚に繰り返されていた。