不確かなハッシュ値、確かな筆跡
──平成0x29A年08月04日 19:50
体育館の床に引かれた白いビニールテープが、エリア分けの境界線だ。俺は腕章を直し、クリップボードの紙を指でなぞる。蒸し暑い夏の夜。年に一度の防災訓練も、そろそろ終わりの時間だった。
『田所さん、参加者リストの最終照合を開始します』
耳元のインプラントから、三年前に逝った妻、芳江の声がする。生真面目な口調は、エージェントになっても変わらない。
「ああ、頼む」
見渡せば、参加者はまばらだ。仕事終わりの若い連中が数人、あとは俺みたいな年寄りばかり。蛍光灯の光が、疲れた顔を白く照らしている。壁際では、高校生くらいの男の子がウォークマンのイヤホンを耳に突っ込んで、壁に寄りかかっていた。もちろん、カセットテープの時代じゃない。ストリーミングで何万曲も聴ける、ただ名前だけが残った代物だ。
『全員の位置情報ビーコン、正常に反応しています。避難所からの退出処理に移ってください』
「よし。じゃあ、出口の認証機に一人ずつ手のひらをかざしてくれ。終わった人から解散でいいぞ」
俺が声を張ると、人々がぞろぞろと出口へ向かい始めた。
ピッ、と軽い電子音が鳴り、緑のランプが灯る。順調だ。そう思った矢先だった。
ブブッ、と不快なブザーが鳴り、認証端末のランプが赤く点滅した。
「あれ?」
五十代くらいの女性が、困ったように自分の手のひらと端末を見比べている。
『警告。対象者の生体情報と、第0x5C81A内閣ユニットから通達された避難者リストのハッシュ値が一致しません』
芳江の冷静な声が、頭に響く。またか、と俺は舌打ちしたくなった。
「悪い、もう一回やってみてくれるか」
女性は頷き、もう一度手のひらをかざす。結果は同じ、赤い点滅。
「すみません、田所さん。こっちも」
別の列からも声が上がる。見れば、さらに二人、認証を弾かれている。
『原因を解析。党中央ドクトリンに基づく暗号アルゴリズム署名が、三十分前のものから更新されていません。現場の端末とサーバーで鍵の不一致が発生しています』
「本部に繋いでくれ」
『……防災課の担当者です』
インプラントの向こうから、若い男の眠そうな声が聞こえる。
「こちら田所だ。署名の不一致で認証エラーが出てる。三名ほどな。どうすりゃいい」
『ああ、またですか。それ、今あちこちで起きてるんですよ。五分ごとに総理大臣が変わるんですから、署名が追いつかないこともありますって』
まるで他人事のような口ぶりだった。
『マニュアル通り、紙で対応してください。記録は後でこっちで統合しますんで』
一方的に通信が切れる。俺は大きくため息をついた。
体育館の隅にある用具入れの扉を軋ませながら開ける。奥から引っ張り出したのは、黄ばんだプラスチックのクリップボード。てっぺんには掠れた文字で「回覧板」と書かれている。
「すまんが、認証が通らなかった人はここに名前と連絡先を書いてくれ」
俺が差し出すと、彼らは怪訝な顔をしながらも、ボールペンを走らせた。
生体認証で一瞬のはずの手続きが、手書きのサインで数分を食う。なんの冗談だ。
全員の退出を確認し、体育館の照明を消す。がらんとした暗闇の中、出口の非常灯だけがぼんやりと光っていた。
『お疲れ様でした。でも、本当にこのやり方でよかったんでしょうか。システム上の記録は不整合のままですよ』
芳江が心配そうに言う。
俺は空になった回覧板を撫でながら、静かに答えた。
「大丈夫だ。どうせ五分後には、またどこかの誰かが総理大臣になって、別の署名で全部上書きする。誰が承認したかも分からなくなるデジタル記録より、このボールペンの跡の方が、よっぽど確かだよ」
妻は、何も言わなかった。ただ、遠くでサイレンのような音が聞こえた気がした。