磁気の裏に走る血脈

──平成0x29A年05月25日 11:50

 定期券の磁気が読めない。

 旧日本橋エリアの信用金庫――と呼ぶには広すぎる、けれど銀行と呼ぶには古すぎるこの場所で、私は朝から三件目の契約審査に取りかかっていた。十一時五十分。昼休みまであと十分。カウンターの向こうで若い男が定期券サイズのカードを差し出し、「これが担保の証書です」と言った。

 磁気定期券。旧JR規格の、緑色のやつだ。

「読み取れませんね」

 私の耳元で、代理エージェントの標準モデル12号が囁く。いつもなら姉の声がする場所に、妙にフラットな合成音声が座っている。姉――宮原真希、享年三十一、くも膜下出血。今月は法定倫理検査で不在だ。代わりに割り当てられた12号は丁寧だが、微妙にピントがずれる。

「当該カードの磁気ストライプ情報をデジタルツイン照合しますか」

「ツインじゃなくて、原本の物理読みが先でしょ」

「失礼。デジタルツインを原本として参照する運用が標準と認識しておりました」

 違う。この信金では物理原本を優先する。姉なら知っている。姉は生前、隣の証券窓口にいたから。でもいまは12号だ。

 私はカウンター下の引き出しから旧式の磁気リーダーを引っ張り出した。リーダーの横に、ずっと置きっぱなしのカセットテープが転がる。姉が検査に入る前日、「暇なとき聴いて」と渡してきたものだ。ラベルには丸い字で「まきのおすすめ 97夏」とだけ書いてある。再生する機械がない。たぶん姉も分かっていて渡した。

 磁気リーダーに定期券を通す。データが画面に滲む。担保証書のフォーマットは正規だが、署名欄の暗号が党ドクトリンの旧バージョンで生成されている。最近はこういうのが多い。アルゴリズムが半ば公然と解読されているせいで、偽造なのか正規なのか、境界が曖昧になっている。

「署名照合の結果、有効率は七十一パーセントです」と12号。

「七十一? 閾値は?」

「七十で承認可能です」

 ぎりぎりだ。私は客の顔を見た。二十代半ば、少し疲れた目。借入額は生活圏内の小規模リフォーム費用。大した額じゃない。

「承認しますか」と12号が訊く。

 そのとき、視界の端に薄い通知が浮かんだ。遺伝子ネットワーク通知。年に二、三回届く、あの淡い桜色のポップアップ。「皇室遺伝子適合率の定期更新が完了しました」。数値は0.0037パーセント。前回と変わらない。私は通知を親指で弾いて消した。客も同じ通知を受け取ったのか、一瞬だけ目線が宙を泳いだ。

「承認します」

 12号が署名プロセスを走らせる。三秒。完了。カウンターの小さなプリンタが感熱紙を吐き出し、客はそれを丁寧に折り畳んでポケットにしまった。

「ありがとうございます」

 客が去った後、私は磁気リーダーの横のカセットテープを手に取った。裏面のラベルは白紙だ。爪で軽く弾くと、中のリールがかさかさと鳴った。

「宮原さん、昼休憩に入りますか」と12号。

「ねえ、12号。カセットテープって再生できる?」

「デジタルツインへの変換であれば、旧メディア対応のスキャナが第四倉庫に——」

「いい。いいよ」

 姉が戻ってきたら訊こう。97年の夏に何があったのか。姉が生まれるずっと前の、誰の夏だったのか。

 カセットを引き出しに戻す。磁気リーダーの画面には、さっきの契約のログがまだ光っていた。有効率七十一パーセント。一パーセントの余白が、今日は誰かの屋根を直す。

 昼のチャイムが鳴った。ガラケーが震えて、社内メールの着信を告げる。件名は「午後の閣議当番について」。私はそれを開かずに、弁当箱を探した。