錆びたバルブ、感熱紙の送信音
──平成0x29A年05月14日 20:40
第五水資源ブロックの末端、築八十年は下らない集合住宅のポンプ室で、私は汗を拭った。
湿ったコンクリートの匂いと、微かに響くモーターの唸り声。視界の端に表示された時刻は、平成0x29A年05月14日 20:40を告げている。
「無駄だぞ、健一。そいつは『党』のメインネットから直接ロックされてる」
脳内でしゃがれた声が響く。父さんだ。死んで五年になるが、頑固な職人気質は生前と変わらず、私の視覚野に常駐している。
「やってみないと分からないだろ」
私は首にかけた**近傍通信タグ**を、錆の浮いた制御盤にかざした。ピリッという電子音とともに、網膜に赤い警告ウィンドウがポップアップする。
『エラー:カーボンクレジット残高不足。供給契約に基づき、バルブを閉鎖しました』
またこれだ。この団地の住人たちは、生活排水の浄化コストを賄うだけのクレジットを持っていない。自動化された内閣ユニットのどれかが、冷徹なアルゴリズムで「供給停止」を閣議決定したのだ。水はそこにあるのに、電子の契約がそれを堰き止めている。
「言ったろ。今の世の中、水よりデータのほうが重いんだ」
父さんのエージェントが、視界の隅で半透明の腕組みをした。「昔はこんな時、現場の判断でちょちょいとバルブを回せたもんだがな」
「今は令和……じゃなくて、平成何年だっけ。とにかく、勝手な操作は懲戒処分だよ」
私は溜息をつき、ポンプ室の隅にある埃を被った管理人用デスクに向かった。そこには、この世界の歪みを象徴するような光景が広がっている。
薄暗い卓上には、分厚いファイルと、黄ばんだプラスチックの筐体が鎮座していた。
**カーボンクレジット台帳**だ。本来、クレジット取引はブロックチェーン上で完結するはずだが、約八十年前の「平成エミュレート」導入時、バックアップとして紙の帳簿をつける慣習が復活した。誰も見ないし、誰も監査しない。だが、形式だけは残っている。
「おい、あれを見ろ」
父さんが指差したのは、デスク脇の棚だ。背表紙が色褪せた**VHSテープ**が一本、突き刺さっている。ラベルにはマジックの手書き文字で『緊急時給水対応マニュアル(暫定)』とある。
「再生できるのか、これ」
私は眉をひそめながら、テレビデオの挿入口にテープを押し込んだ。ウィーン、ガチャン。小気味よい機械音と共に、ブラウン管に砂嵐が走り、ひどく画質の粗い映像が浮かび上がる。
画面の中では、まだ若かった頃の父さん――によく似た作業服の男が、ぎこちない笑顔で解説していた。
『えー、通信障害等により電子申請が不可能な場合、特例措置として……』
映像はノイズで波打ち、音声はこもっている。だが、その内容は今の私にとって福音だった。
『……現地の台帳に手書きで“仮払い”を記載し、その写しを本局へFAX送信することで、二十四時間の猶予給水が認められます』
「なんだその裏技」
「裏技じゃない。アナログ・オーバーライドだ」父さんの声が心なしか自慢げに弾む。「デジタルが詰まったら、アナログで通す。それが配管屋の矜持ってもんだ」
私はカーボンクレジット台帳を開いた。最終ページに、ボールペンで『5月14日分、仮払い申請。担当:井上』と書き込む。紙にインクが染み込む感触。デジタルの署名にはない、確かな重みがある。
そして、そのページを**FAX機**にセットした。電話線は生きているだろうか。ダイヤルを回す。
ピー、ヒョロロロロ……。
静寂なポンプ室に、間抜けで、しかしどこか懐かしい変調音が響き渡った。この音は、遥か遠くのデータセンターの片隅にある、忘れ去られたモデムへと届くはずだ。
送信完了の電子音が鳴るのとほぼ同時、制御盤の赤いランプが緑に変わった。
ゴウッ、と配管の中を水が走る音がする。まるで血管に血が通うような、力強い振動が床から伝わってきた。
「……通った」
「へっ、チョロいもんだな。あのアルゴリズムも、まだFAXの音を聞き分ける耳は残ってたってわけだ」
私はポンプ室を出て、夜空を見上げた。団地の窓に、ぽつりぽつりと明かりが灯り始める。蛇口から水が出たことに安堵し、夕食の支度を始める人々の気配。
世界は相変わらず、意味の分からない計算式と腐敗したドクトリンで回っている。だが、少なくとも今夜だけは、アナログな手順が数千人の喉を潤した。
「帰ったらビールでも飲むか、健一」
「ああ。父さんは飲めないけどな」
「気分だよ、気分」
感熱紙の焦げたような匂いが、まだ鼻先に残っている気がした。それは不思議と、不快ではなかった。