代理エージェントが呼ぶ名前

──平成0x29A年04月22日 06:50

朝の六時五十分、アパートの廊下を歩きながら、私は代理エージェントの声に違和感を覚えていた。

「おはようございます、田村さん。本日の倫理検査は十一時三十分より開始予定です」

声は母のものだった。でも、抑揚が違う。母は私のことを「真帆ちゃん」と呼んだ。この代理は私を「田村さん」と呼ぶ。

私は田村真帆、三十一歳。旧川崎エリアの集合住宅で、遺伝子ネットワークの保守点検員をしている。母のエージェントは三週間前から倫理検査に入っていて、今は標準型の代理が務めている。

隣の部屋のドアに、古びたテレホンカードが貼り付けてあった。防災連絡網の印だ。このアパートでは各戸に一枚ずつ配られている。裏面には手書きで部屋番号と名前、それに緊急連絡先が書かれている。

階段を降りると、郵便受けの横に空中ディスプレイが浮かんでいた。管理組合からのお知らせだ。

『本日午前、共用部デジタルツインの同期処理を実施します。一時的に監視カメラ映像が途切れる場合があります』

私は自分の郵便受けを開けた。中には折りたたまれた紙が一枚。開くと、手書きの文字。

『真帆ちゃんへ。お母さんのエージェント、今日で検査終わるって聞いたよ。よかったね。—302号 佐々木』

佐々木さんは隣の隣に住む七十代の女性だ。母とよく廊下で立ち話をしていた。

「田村さん、本日の業務スケジュールを確認しますか?」

代理エージェントの声が耳元で響く。私は小さく首を振った。

外に出ると、朝の空気が冷たかった。通りの向こうから、ポケベルの電子音が聞こえる。配達業者が使っている旧規格の呼び出し端末だ。あれで荷物の到着を知らせている。

私は歩きながら、母の声を思い出そうとした。でも、三週間も代理の声を聞いていると、本物の抑揚が曖昧になってくる。

「真帆ちゃん」

そう呼ぶ声の響きを、忘れたくなかった。

仕事場に着くと、同僚の北川が声をかけてきた。

「田村、今日お母さんのエージェント戻ってくるんだって?」

「ええ、夕方には」

「よかったな。うちの親父のときは、代理が戻ってこなくてさ。検査で引っかかって再調整になったんだ」

私は息を呑んだ。そういうケースもある。倫理基準を満たせなければ、人格データは修正されるか、最悪の場合は削除される。

「大丈夫だよ、田村の母さんなら」

北川はそう言って笑ったが、私の不安は消えなかった。

午後、遺伝子ネットワークの定期点検を終えて帰宅すると、郵便受けに通知が入っていた。

『倫理検査完了。本日18:00より通常エージェント機能を再開します』

私は部屋に入り、ソファに座って待った。空中ディスプレイに時刻が表示される。17:58、17:59。

18:00。

「真帆ちゃん、ただいま」

母の声が響いた。抑揚も、呼び方も、三週間前と同じ。

私は目を閉じた。

「おかえり、お母さん」

でも、心の奥で小さな疑問が残る。これは本当に母なのか。それとも、倫理検査を通過するために最適化された、別の何かなのか。

テーブルの上に置かれたままのテレホンカードが、夕陽を反射して光っていた。