セロハンテープのドクトリン

──平成0x29A年02月20日 16:10

またエラーだ。ディスプレイに表示されたシミュレーション結果は、鮮やかな赤色で停止していた。

「生体モデルの準拠プロファイル。また『平成文化様式』との同期ズレだ」

頭の中に、兄さんの冷静な声が響く。僕の網膜にだけ見えるウィンドウに、彼が解析したエラーログが展開された。

『香田 渉』。僕の近親人格エージェントであり、五年前に実験中の事故で死んだ、たった一人の兄さんだ。

「分かってるよ。でも、この『ズレ』のせいで、ナノ医療パッチの適合率が三パーセントも下がるんだ。臨床に進めない」

僕は腕に貼られた試作品のパッチに触れる。皮膚の下で、ナノマシンが不協和音を奏でているような、微かな不快感がずっと続いている。壁に投影されたホログラム掲示が、プロジェクトの遅延を示すグラフを一瞬だけ明滅させた。

この社会が、約八十年前に党ドクトリンのアルゴリズムが最適と判断した「平成」という時代をエミュレートし始めてから、僕らのような先端分野の研究者は常にこの問題に突き当たる。社会を安定させるための文化様式が、未来を創る技術の足枷になっているんだ。

「参照データを直接修正できないかな」

「根本的なソースにはアクセス権限がない。けど、プロファイルの参照元を辿ることはできるかもしれない」

兄さんの言葉に頷き、僕は古いデータベースの階層を潜っていく。インターフェースは最悪だった。まるで大昔の携帯電話の『電話帳』みたいに、五十音順のインデックスを何度もクリックしないと目的のフォルダにたどり着けない。

「あ」

「か」

「さ」

気の遠くなるような操作の末、僕らは『H-Standard_Emotion_Baseline_Ver3.1』というフォルダを見つけ出した。

「これだ。この中の、特に『共感性』に関するパラメータが、僕らの生体モデルと衝突してる」

兄さんが、ソースコードの特定の箇所をハイライトする。そこには、意味不明な文字列がコメントアウトされて羅列していた。暗号のようにも見える。

「解析してみる」

数秒の沈黙。兄さんの処理能力が、僕の脳の片隅で高速回転しているのを感じる。

「……分かった。これは座標じゃない。ある特定の文化イベントの識別子だ。旧世紀の映画、音楽、それに……これだ」

兄さんが僕の視界にポップアップさせたのは、一枚の画像データだった。
色褪せた紙片。ミシン目で切り取られた跡。日付と、よく分からないキャラクターの絵が印刷されている。

「チケットの半券……?」

「そう。この半券が紐づけられた個人の生体ログ、その時の感情データが、どういうわけか、現在の社会全体の感情モデルの基底キーとして採用されている。党の安定化アルゴリズムが、これを『最も標準的な人間の幸福モデル』だと判断したらしい」

呆れて言葉も出なかった。僕らの研究を停滞させている原因が、何百年も前の、誰かの個人的な思い出の欠片だなんて。

巨大で、合理的で、冷徹なはずの統治システム。その心臓部に、こんなにも非合理で、個人的で、温かいものが埋め込まれている。

「……もういいや」

僕はシミュレーションを閉じた。壁のホログラム掲示は、次の閣議ユニットが承認した政策リクエストの一覧を淡々と流している。

「このパッチが、いつか誰かの思い出に縛られずに機能する日は来るのかな」

腕のパッチが、まだチリチリと微かな不快感を伝えてくる。

「どうだろうな。でも、その思い出がなければ、この社会自体が安定しなかったのかもしれないぞ」

兄さんの言葉に、僕はふと、机の引き出しに手を伸ばした。
中から取り出したのは、一枚の古い写真。幼い僕と、まだ生きていた兄さんが、遊園地のゲートの前で笑っている。

その写真の裏側。角が剥がれかけたセロハンテープで、乗り物のチケットの半券が貼り付けてあった。

僕らの世界を規定している巨大なアルゴリズムの正体は、案外、この手のひらの上の小さな紙切れと、大して変わらないのかもしれない。

静かな気づきに、僕はただ、深く息を吐いた。