地図帳に折られた五分間

──平成0x29A年04月24日 19:00

俺が教室に入ると、生徒たちは机に突っ伏していた。

「おい、起きろ。今日は紙地図の読解実習だぞ」

第7教育ブロック職業訓練校。俺は週三回、ここで「アナログ行政実務」を教えている。本業は第12内閣ユニット補佐の下請きだが、副業で食いつないでいる。

生徒の一人が欠伸をしながら顔を上げた。「先生、紙地図なんて誰が使うんすか」

「お前らが使うんだよ。システムダウン時の緊急対応、覚えてるだろ」

教卓の上に、古い電話帳と折り畳まれた地図帳を広げる。平成エミュの影響で、こういう紙媒体が妙に残っている。電話帳は2010年代のタウンページで、地図は1990年代の道路地図だ。縮尺も様式も違う。

「じゃあ始めるぞ。この地図で第9医療ブロックの旧総合病院を——」

耳元で、叔父のエージェントが囁いた。

『健二、通知が来ている』

叔父の声だ。享年56、肝硬変で亡くなった。生前は市役所の課長で、俺が公務員試験に落ちたときも励ましてくれた。

「今は授業中だ」小声で返す。

『緊急だ。お前、五分後に第0x4A9内閣ユニットの総理大臣になる』

は?

生徒たちが怪訝な顔でこっちを見ている。俺は動揺を隠して、平静を装った。

「ちょっと待て。地図、各自で確認しとけ」

教室の隅に移動し、腕のデバイスを確認する。本当だ。ランダム抽選で俺の市民IDが選ばれている。五分間だけ、形式上の「内閣総理大臣」。

『落ち着け。補佐エージェントが政策変更リクエストを整理する。お前は署名するだけだ』

「署名って、党ドクトリンのアルゴリズム署名だろ? あんなの形骸化してるじゃないか」

『形式は守れ。承認か非承認、それだけだ』

デバイスに次々と通知が来る。政策変更リクエストが十数件。内容は——医療ブロックの合成食品プリント配給枠の調整、交通ブロックのダイヤ変更、教育ブロックのカリキュラム見直し。

全部、差分の断片だ。現行制度との微調整。

『一件目。リモート診療端末の更新予算。承認を推奨する』

「根拠は?」

『党ドクトリンに合致。アルゴリズム署名も通る』

画面に表示された署名欄。俺は指で軽くなぞった。承認。

次。合成食品プリントの配給枠。第9医療ブロックから「高齢者向けタンパク質強化食を月額5%増やしたい」という要望。

『非承認を推奨。予算超過のリスクがある』

「でも、栄養不足で倒れる高齢者が増えてるって、ニュースで見たぞ」

『感情論だ。党ドクトリンに従え』

俺は一瞬、迷った。でも指は動いた。非承認。

そうしてる間に、教室では生徒が騒ぎ始めていた。一人が地図を逆さに持って、別の生徒に見せている。

「先生ー、この地図、北が下になってますー」

「それ、裏返してるだけだろ」

『あと三件。急げ』

叔父の声が焦っている。俺は次々と署名した。承認、非承認、承認。内容はもう頭に入ってこない。ただアルゴリズムに従って指を動かす。

そして——五分が経った。

デバイスの画面が消える。『任期終了。お疲れ様』

教室に戻ると、生徒たちは電話帳を開いて遊んでいた。

「先生、この電話帳、マジで紙なんすね。重いっす」

「ああ、重いな」

俺は教卓に戻り、地図帳を手に取った。折り目が増えている。生徒たちが適当に開いたせいだ。

ふと、地図の余白に小さな文字が書かれているのに気づいた。鉛筆で薄く。

『次の総理大臣へ。タンパク質強化食、承認してやってください』

誰が書いたんだ、これ。

叔父のエージェントが、また囁いた。

『健二、次の授業の準備をしろ』

「……ああ」

俺は地図帳を閉じた。折り目が、妙に深く残っていた。