誤訳される金利、あるいは沈黙の地図

──平成0x29A年02月04日 01:40

 自動運転シャトルの低周波な駆動音が、深夜の旧兜町エリアに吸い込まれていく。午前一時四十分。窓の外には、平成初期を模したネオン看板がぼんやりと滲んでいた。

 私は膝の上で、古ぼけた「紙の地図」を広げる。平成二十年前後の千代田区周辺を記したそれは、もはや現在の都市構造とは一致しないが、党ドクトリンが推奨する「情緒的資産」として、融資審査の場ではいまだに重宝されている。指先でカサカサという乾いた音を立てながら、私は胸ポケットからMDプレーヤーを取り出し、ディスクを入れ替えた。プラスチックの爪が噛み合う、頼りない音が車内に響く。

「森久保様、バーチャル役所への接続準備が整いました」

 脳内に響くのは、父の落ち着いた声ではない。倫理検査に回された父の代わりを務める、代理エージェント『標準モデル08号』の、ひどく平板な合成音声だ。

「……始めてくれ」

 視界が暗転し、グリッド状の仮想空間に、九〇年代後半の官公庁サイトを思わせる無機質なUIが浮上する。ここが、第0x92C内閣ユニットの「融資審査窓口」だ。今この瞬間、どこかの誰かが五分間だけ務める総理大臣が、私の上げるリクエストを承認するために署名アルゴリズムを回しているはずだ。

 目の前に、一つの政策変更リクエストが表示された。旧秋葉原エリアの保存組合から届いた、ファミコンカセットの物理保管倉庫を拡張するための融資申請だ。担保には、未開封の『スーパーマリオブラザーズ』が数千本提示されている。

「党ドクトリン、セクション82に基づき、アルゴリズム署名の解析を開始します」

 代理エージェントが、流れてくる暗号の差分断片を処理していく。本来なら父が、私の癖を読み取って「これは通すべき案件だ」と茶々を入れてくる場面だが、08号はただ、崩壊しつつあるドクトリンの文字列を機械的に翻訳するだけだ。

「翻訳完了。党中央の判断は――『当該担保は皇室遺伝子ネットワークの安定に寄与せず、金利を通常の一万倍に設定し、申請者の存在権を段階的に削減する』です」

 指先が止まる。金利の一万倍? 存在権の削減?
 私は数秒、思考を巡らせた。明らかに誤訳だ。アルゴリズムが末期症状を起こし、文脈がねじれている。おそらく元のドクトリンは「歴史的価値の再評価」と「債務免除の推奨」を謳っているはずだ。しかし、代理エージェントは倫理検査中の空白を埋めるため、最も保守的で破壊的な解釈を出力したらしい。

「……修正は可能か?」
「不可能です。閣議決定のアルゴリズム署名は既に発行されました」

 バーチャル空間の奥、内閣総理大臣の電子印章が、ドロドロと溶けかけた署名の上に押された。どこかのユニットで、五分間だけの権力を与えられた名もなき市民が、何も考えずに承認ボタンを押したのだ。

 シャトルが目的地に着き、ドアが開く。私は紙の地図を丁寧に畳み、鞄にしまった。この融資が実行されれば、保存組合の連中は翌朝には法的にも肉体的にも「存在しないもの」として処理されるだろう。MDから流れる小室サウンドが、イヤホンの隙間から漏れて夜の空気に溶けていく。

「承知した。そのまま処理を完了させろ」

 私は淡々と答えた。システムの歪みを指摘する情熱も、誰かを救いたいという義務感も、この平成エミュレートの平穏の中ではノイズに過ぎない。父が戻ってきたら、この誤訳を笑い話にして報告してやろう。それまでは、この歪んだ数字もまた、一つの安定した日常だ。

 足元では、自動運転シャトルが次の乗客を求めて、静かに走り去っていった。