神饌データの余白に

──平成0x29A年09月20日 08:50

玉砂利を踏む自分の足音だけが、朝の境内に響いていた。ひんやりとした空気が肌を刺す。もう秋だというのに、蝉の死骸がまだ灯籠の根元に転がっている。

「悠。また弾かれたぞ」

網膜に直接投影された祖父の声は、生前と変わらず低く、厳かだった。視界の右上に、赤いエラーコードが明滅している。『申請#893-B: 差分不整合。党ドクトリン署名ハッシュ値が期待値と一致しません』。これで今朝三度目だ。

「わかっています、じいちゃん」

私は竹箒をいったん脇に置き、ため息を一つ。社務所の縁側に腰を下ろした。
壁にかけられた紙のカレンダーには、来週の土曜、「例大祭」と走り書きされた日付に、大きな赤い丸がついている。もう、提灯や屋台の配置に必要な近傍通信タグも、すべて設置し終えたというのに。

「原因がわからん、というのが一番厄介じゃな。昔は宮司の印一つで済んだものを」

「昔は、ね。今は第何番かもわからん内閣ユニットのご神託を待たないと、神事ひとつできない」

皮肉を込めて言うと、祖父のエージェントは黙り込んだ。彼も、このもどかしさは理解している。三百年間、誰もその実体を見たことがない「党」のアルゴリズムが、遠い昔の「平成」とかいう時代を規範として社会を回している。その歪みが、こんな末端の神社の祭りにまで、じわりと染み出している。

私は立ち上がり、社務所の奥にある申請端末に向かった。古びた木製の机に不釣り合いなコンソールが鎮座している。掌を認証パッドに乗せると、冷たいスキャナの光が走った。

ログインし、エラーログを睨む。やはり同じだ。原因不明の不整合。まるで、気まぐれな神の戯れ。

「悠、少しくだらんことを試してみんか」

不意に、祖父が言った。

「くだらないこと?」

「うむ。お前が子供の頃、ゲームセンターでメダルが足りなくなった時、わしが何をしたか覚えとるか」

唐突な問いに、記憶の蓋が開く。そうだ。あの時、泣きべそをかく私のポケットに、祖父は自分のメダルをこっそり一枚、忍ばせてくれた。「おまじないじゃ」と言って。

机の引き出しを開ける。一番奥に、古びた小物入れがあった。中には、くすんだ真鍮色のメダルが一枚。あの時のものだ。

「……これを?」

「そのアルゴリズムとやらも、元は人が作ったものじゃ。完璧な理屈だけで動いているとは限らん。どこかに、そういう『おまじない』が入り込む隙間があるやもしれん」

馬鹿げている。そう思った。だが、他に打つ手もない。
私はメダルをフラットベッドスキャナに乗せ、高解像度で取り込んだ。意味のない、ただの画像データ。申請フォームの末尾、「その他添付資料」の欄に、そのデータをドラッグ&ドロップした。

送信ボタンを押す指が、わずかに震える。システムが、再び私の生体認証を要求してきた。

しばらく、沈黙が流れた。私はただ、端末の黒い画面を見つめていた。カレンダーの赤い丸が、やけに目に焼き付く。

ピコン、と軽い電子音が鳴った。

視界に、緑色のテキストが浮かび上がる。

『第0x8C3A9内閣ユニットによる閣議決定: 申請#893-C、承認』

なぜ通ったのか、わからない。メダルの画像データが、偶然にもハッシュ値の計算過程で発生する丸め誤差を補正したのか。それとも、単に五分間の首相役を務めていた誰かが、意味不明の添付ファイルを見て、気まぐれに承認ボタンを押しただけなのか。

「ほれみろ」

祖父の声は、どこか得意げだった。

「神頼みも、時には効くもんじゃ」

私は何も答えず、ただ静かに端末からログアウトした。そして立ち上がり、社務所の隅に立てかけてあった竹箒を、再び手に取った。

掃き清めなければならない。祭りの前に、やることはまだたくさんある。
玉砂利を掃く音が、また静かな境内に戻ってきた。それが、私の答えだった。