深夜劇場の、褪せたチケットと姉の記憶

──平成0x29A年09月30日 00:20

深夜の第7娯楽ブロック。シネマ10の清掃は、いつものように私、篠原蓮の担当だった。
フロアを巡る自動清掃機が静かなモーター音を立てる中、私は手作業で座席の埃を払う。肘掛けに腕を置くと、ナノ医療パッチがひんやりと肌に触れた。貼っているのは習慣みたいなものだ。

「蓮、今日もご苦労様。その調子じゃ、ナノ医療パッチも必要ないね」

腕に埋め込まれたデバイスから、姉の葵の声が聞こえる。享年22。不慮の事故で亡くなった姉の人格が、今は私のエージェントとして、脳内で常に私を補佐している。彼女の快活な声は、この静かな空間にわずかな温もりを与えてくれる。

その時、腕のデバイスが不意に激しく点滅した。
「第0x98D2F内閣ユニット総理大臣に選出されました。任期5分」

またか、と私は小さく息を吐く。第402ヘゲモニー期になってから、この選出頻度が上がっている気がする。どうせ党ドクトリンに基づく暗号アルゴリズム署名が求められるだけだ。私の意思など、ほとんど関係ない。

「政策変更リクエストを受信しました。『娯楽施設における感情誘導型VR広告の導入許可範囲拡大』。レビューを開始します」

葵の声が、一瞬だけ硬くなる。エージェントとしての仕事モードだ。
「この件は、約200ヘゲモニー期前にも議論があったはずよ。iモードサイトのアーカイブに記録が残ってるはずだから、関連法規を検索するわ」

しかし、すぐに彼女の声に動揺が混じった。
「……データ不整合。参照できません」
「どうした、葵姉ちゃん?」
「ごめん、ちょっと調子がおかしいみたい。検索システムが古いのかしら?」

システムが古い? 葵の記憶補助は最新のはずだ。最近、彼女の記憶に曖昧な部分が増えていることに、私は薄々気づいていた。倫理検査の時期ではないのに。

私は座席の下に落ちていた何かを拾い上げた。それは、古びたデザインの映画チケットの半券だった。昔の子供向けアニメ映画のものだ。キャラクターの絵が褪せていた。
「これ、昔の映画の。葵姉ちゃんも好きだったな」

葵は懐かしむように言った。「ああ、あの頃はよく行ったよね。あの、ほら、主題歌が印象的だった…ええと、なんだったっけ?」
言葉が詰まる。iモードサイトの話をしたときも、昔夢中だった着メロの話で曖昧な返事だった。彼女が昔、夢中で見ていた、あのiモードサイトのことすら、もうはっきりとは思い出せないのかもしれない。

残された時間はあとわずか。私は考える。党ドクトリンの「社会安定に最適」という判断基準は、もはや形骸化し、アルゴリズムは半ば公然と解読されている。感情誘導型VR広告が、本当に社会安定に繋がるのか。疑問は尽きない。

だが、葵の不調に戸惑いながらも、私はリクエストを承認した。党ドクトリンの形式に従うのが、最も平穏な道だと知っているからだ。
「承認」
デバイスが「党中央ドクトリンに基づく署名を承認。処理完了」と告げた。5分間の任期は終わり、腕のデバイスは通常の輝きに戻った。

清掃を終え、映画館を出る。外には自律型バスが静かに待っていた。シートに深く身を沈め、窓の外に流れるネオンの光を眺める。街の風景は、平成をエミュレートした、どこか見覚えのあるものだ。

「ねえ、葵姉ちゃん」
私はそっと語りかける。
「本当は、記憶が曖昧になるの、怖いんだろ?」

葵は沈黙した。応答はなかった。もしかしたら、もう私の言葉の意味すら、彼女の中では正確に処理されていないのかもしれない。
「俺、たまに思うんだ。昔の、全部覚えてた頃の姉ちゃんに会いたいって」
それは、私が初めて葵に打ち明けた、偽りのない本音だった。自律型バスは静かに夜の街を走り続ける。私の腕のナノ医療パッチが、冷たく感じられた。