窓口三番、差分は通らない
──平成0x29A年07月13日 13:30
FAX機が、また吐き出した。
私は第6行政ブロック、区民課の窓口三番で働いている。今日も昼過ぎから差分リクエストの処理で手が離せない。三十七歳、独身、名前は岡田優子。
「すみません、これ、まだですか」
老人が窓口の向こうで小さく咳をした。住所変更届。本来ならメタバース広場の公共端末から一発で済むはずなのに、わざわざ紙で来る人がいる。平成的エミュレーションの副作用だと、みんな言う。
「少々お待ちください。今、署名が……」
私の横のモニタには、変更届に対する内閣ユニットからの承認待ちステータスが表示されている。だが三十分経っても動かない。ユビキタスセンサー網が拾った本人確認情報と、届出内容の差分が微妙にズレているらしい。
「優子、またか」
耳元で母の声がした。母、岡田千鶴子。享年六十一、脳梗塞。元は税務署員で、数字に厳しい人だった。今は私の近親人格エージェントとして、毎日小言を言っている。
「うん。署名アルゴリズムが通らない」
私は小声で返した。周りに人はいないが、エージェントと喋っているのを見られるのは少し恥ずかしい。
モニタの隅に、党ドクトリン署名の検証ログが流れている。普通は見えないはずのデータだが、最近はUIの作りが雑で、裏側が透けて見える。暗号アルゴリズムも半ば公然と解読されているから、職員なら誰でも気づいている。
私は引き出しから、ファミコンカセットを取り出した。正確には、ファミコン風の外装をした署名生成デバイス。非公式だが、窓口職員の間では常識だ。カセットの端子部分をモニタの認証ポートに差し込むと、裏で党ドクトリン署名を模倣生成してくれる。
「優子、それ使うの?」
母の声が少し低くなった。
「だって、このままじゃ老人が帰れないよ」
私はカセットを押し込んだ。モニタが一瞬明滅し、承認ステータスが緑に変わる。FAX機が再び唸りを上げて、承認通知を吐き出した。
「お待たせしました」
私は紙を老人に渡した。老人は安堵の表情で頭を下げ、窓口を離れた。
「優子」
母がまた呼んだ。
「なに?」
「あなた、毎日それ使ってるわね」
「……うん」
「私が生きてた頃は、こんなことしなくても通ったのに」
私は黙った。母の言う通りだ。昔は、システムがもっとちゃんと動いていた。でも今は、アルゴリズムが古すぎて、ちょっとした入力ミスや、センサーの誤差で承認が通らなくなる。だから私たちは、裏技を使う。
「ねえ、優子」
「なに?」
「あなた、自分が何してるか分かってる?」
私は手を止めた。モニタには、次の差分リクエストが表示されている。保育園の定員変更。これも署名が通らない。
「……分かってるよ」
「本当に?」
母の声が、少し優しくなった。
私は窓の外を見た。夏の日差しが、古びた区役所の壁を照らしている。遠くで、メタバース広場の巨大スクリーンが何かの広告を映していた。
私たちは、毎日、壊れたシステムを手で繕っている。署名アルゴリズムが機能しないから、偽の署名を作る。それが正しいかどうかなんて、もう誰にも分からない。党も、ドクトリンも、もう何も守っていない。
でも、私たちは窓口を開け続ける。老人が帰れるように。保育園が開けるように。
「優子」
「分かってる」
私はカセットを引き出しにしまった。次の差分リクエストに、手を伸ばす。
FAX機が、また紙を吐き出した。