感熱紙の署名、雨傘の定義
──平成0x29A年 日時不明
窓口の空気は、いつも湿った埃の匂いがする。
外は雨だ。入り口の傘立てには、誰のものか判別がつかなくなった透明なビニール傘が、何本も無造作に突き刺さっている。平成という時代をエミュレートし始めてから、この「安価で使い捨ての雨具」は、なぜか社会の共通認識として定着した。誰もが自分のものだと思って持ち歩き、誰もが他人のものと取り違えていく。それがこの時代の、ささやかな共有財産の在り方だった。
「三上さん、またFAXが詰まってますよ」
視界の隅で、エージェントの紀子叔母さんが淡々と言った。いや、今は正確には紀子叔母さんではない。彼女は今朝から法定倫理検査に入っている。代わりに私の網膜に投影されているのは、彼女の外見をトレースしただけの、味気ない代理AI秘書だ。
「分かってる。この機種、もう何十年使ってると思ってるんだ」
私は椅子を蹴って立ち上がり、重たいFAX機へと歩み寄った。ガタガタと異音を立てる機械の腹から、ぐしゃぐしゃになった感熱紙を引き抜く。そこには、どこかの内閣ユニットから送られてきた「政策変更リクエスト」の断片が印字されていた。デジタル化された世界で、なぜわざわざFAXという物理的な出力が必要なのか。それは『党』が定めたドクトリンの一部に、「物理的証跡による誠意の証明」という不可解なアルゴリズムが組み込まれているからだ。
その時、私の視界が真っ赤な警告色に染まった。
【通知:第0x7F5C内閣ユニットにおいて、あなたが第402ヘゲモニー期・第88291代内閣総理大臣に選出されました。任期:300秒】
「……最悪のタイミングだ」
窓口には、近傍通信タグを握りしめた中年男性が、不機嫌そうな顔で立っていた。私は総理大臣としての思考をバックグラウンドで走らせながら、公務員としての顔を作った。
「お待たせしました。本日はどのようなご用件で?」
「ビニール傘の所有権確定申請だ」と男は吐き捨てた。「駅前のコンビニで買った直後、誰かにすり替えられた。タグのログを確認して、ドクトリンに基づいた制裁を承認してほしい」
代理AI秘書が私の耳元でささやく。
『三上総理。現在、並行して走っている第0x7F5C内閣ユニットの閣議決定プロセスにおいて、重大な不整合が発生しています。提出された「傘の所有権管理ドクトリン」の更新プログラムに、三百年前に収斂したはずの暗号署名が含まれていません。このままでは全ユニットの傘の定義が崩壊します』
目の前の男は、タグをカウンターに叩きつける。私の頭の中では、数十万の変数が火花を散らしている。私は総理大臣として、この不整合な署名を「閣議決定」という名のアドホックな修正で承認しなければならない。さもなければ、この男の傘一本のために、全内閣ユニットの物流アルゴリズムが停止する恐れがある。
「……三上総理、残り百二十秒です。党ドクトリンの解読済み断片によれば、この不整合は『平成的曖昧さ』として許容されるべきだと推測されます」
代理秘書の無機質な声が響く。私は男のタグを読み取り機にかざしながら、仮想空間の署名欄に、自分の暗号鍵を叩き込んだ。同時に、FAX機が再びガタガタと鳴り、真っ白な紙を吐き出した。
「はい、手続き完了です」と私は男に言った。「あなたの傘は、ドクトリンにより『公共の所有物』として再定義されました。つまり、誰が持っていっても不問となります。これにて一件落着です」
男は呆然とした顔で私を見た。私の視界から総理大臣のUIが消え、任期終了の通知が流れる。
「……なんだそれは。俺の傘はどうなるんだ?」
「社会の安定のためです」私は営業スマイルを浮かべた。「次の任期の総理が、また定義を変えるかもしれませんから。お急ぎなら、入り口にある誰かの傘を適当に持っていってください」
男は汚い言葉を吐き捨てて、雨の中へ飛び出していった。彼は結局、入り口に並んでいた一番綺麗なビニール傘を掴んでいった。
私は手元に残った、詰まった感熱紙の残骸を見つめた。そこには、私の署名によって「存在しないこと」にされた、何千人分かの傘の所有権リストが、黒いインクの染みとなって滲んでいた。
「お疲れ様でした、三上さん」
代理AIが、紀子叔母さんの声で告げる。その声には、本物の彼女が持っていたはずの、皮肉めいた優しさが微塵も含まれていなかった。
外の雨は、まだ降り続いている。世界は今日も、決定的に不整合なまま、完璧に調和していた。