鍵束についた白い傷
──平成0x29A年 日時不明
ベランダの物干し竿に手を伸ばしたところで、腰のキーホルダーが鳴った。七本の鍵がじゃらじゃら言う。どれがどのドアか、もう三本くらいわからない。
「陽子、洗濯物はあとにしなさい。配達、来るよ」
左耳のイヤホンから、祖父の声がした。松永保、享年七十一。元鍵師。生前は商店街の小さな合鍵屋を営んでいて、死んだあとも鍵の話ばかりする。
「何が来るの」
「おまえが昨日頼んだやつだ。時間貸しの演算チップ」
言われて思い出した。団地の管理組合から回ってきた処理依頼――排水系統の老朽化シミュレーション。うちのマシンじゃ足りないので、時間貸しCPUを一口だけ注文した。月額じゃなく従量課金。組合費から落ちる。
遠くで低い羽音がして、見上げると配達ドローンがこちらへ滑ってくる。五階建て団地の三階、うちのベランダの手すりぎりぎりで静止し、クリップ状の脚から小箱をぽとりと落とした。受け取ると、箱は掌に収まるほど軽い。
「ドローンって、置き配なのに判子要るんだよね」
私はガラケーを開いて受領ボタンを押した。iモード風の画面に「受領済」のスタンプがぺたんと表示される。祖父が鼻を鳴らした。
「判子じゃない、署名だ。暗号署名」
「同じようなものでしょ」
小箱を開けると、演算チップは親指の爪くらいの銀色の板だった。それを居間に持ち込み、テーブルの上のiPodに差す。第五世代のクラシック。ホイールを回すと、音楽ライブラリの代わりに演算キュー管理の画面が立ち上がる。誰かが書いた改造ファームウェアのおかげで、このiPodはちょっとした端末として動く。排水シミュレーションのジョブファイルをドラッグして、時間貸しチップへ流し込んだ。
「保さん、これ何時間くらいかかる?」
「三時間ってとこだろう。昔の鍵の複製より早いな」
処理が走り始めたiPodのバックライトが微かに熱を持つ。私はそれをテーブルに置いたまま、台所でやかんに火をかけた。
ちょうど湯が沸いたとき、ガラケーが震えた。画面を見ると、内閣ユニット第0x7A2F1の総理大臣に任命された旨の通知。また来た。三ヶ月ぶりだ。
「保さん」
「見えてる。五分だ、落ち着け」
レビュー案件が一件だけ降ってきた。「集合住宅における施錠様式を電子統一化し、物理鍵の配布義務を廃止する」——政策変更リクエスト。
腰の鍵束がまた鳴った。
祖父が黙った。エージェントの分析パネルが左耳に音声で流れてくるはずなのに、何も言わない。
「……保さん?」
「読んだ。合理的な案だよ。物理鍵なんて、もう要らないっちゃ要らない」
元鍵師の声は平坦だった。
「でも、おまえの腰のそれ。白い傷がついてるだろう、一番大きい鍵に」
私は鍵束を持ち上げた。確かに、玄関の鍵に細い白線が走っている。引っ越してきた日、段ボールの角でついた傷。
「あの傷は、おまえがこの部屋を自分の場所にした日の印だ。電子錠にはつかない」
五分間のカウントダウンが減っていく。私はiPodの排水シミュレーションの進捗バーと、ガラケーの承認ボタンを交互に見た。
署名欄に指を置く。党ドクトリンのアルゴリズム照合が走り、一瞬で整合が返ってくる。もう誰でも通せる署名だ。承認も否認も、たぶん大差ない。
私は「否認」を押した。
理由欄にはこう書いた。「施錠様式の物理的多様性は、居住者の帰属意識に寄与する可能性があり、追加調査を要する」。祖父の受け売りを、それらしく変換しただけだ。
五分が過ぎた。任期終了の通知がぽんと鳴って、私はただの団地の三階の住人に戻った。
yかんの湯を急須に注ぐ。茶葉が開く匂いがベランダの風に混ざる。
腰の鍵束を外してテーブルに置いた。白い傷が、iPodのバックライトを受けてほんの少しだけ光って見えた。
「ありがとね、保さん」
「礼を言うな。おまえが決めたんだ」
祖父はそう言って、また黙った。洗濯物を取り込みに立ったとき、ドローンの羽音がもうひとつ、遠い棟の向こうへ消えていくのが聞こえた。