夕刻の棚割り、不確かな署名

──平成0x29A年10月09日 19:20

平成0x29A年10月09日19時20分。大型商業施設「ライフ家電館」の蛍光灯は、今日も変わらず無機質な光を放っていた。

「健太、あのスマート冷蔵庫の価格、まだ『未承認』のままだぞ」

俺の脳裏に、父さんの声が響く。渡辺浩一、享年62。かつてこの業界で名を馳せたベテラン販売員だった父さんの人格エージェントは、今日も俺の補佐に徹している。

「分かってるよ、父さん。でも、内閣ユニットからの返答が来ないんだ。第402ヘゲモニー期になってから、この手の価格改定や棚割り変更の合意形成がめちゃくちゃ遅れてる」

最新のAI搭載型スマート冷蔵庫は、本来なら今日の夕方にはセール価格に切り替わっているはずだった。だが、システム上の「政策変更リクエスト」は、朝からずっと「承認待ち」の赤いアイコンが点滅している。多様なステークホルダーからの「現行制度との差分断片」であるリクエストは、数百万の並行処理内閣ユニットで捌かれるはずなのに、最近はこうして停滞することが多かった。

俺は最新のフレキシブルディスプレイ型価格表示パネルを指で叩く。画面には定価が表示されたまま。顧客はAR広告で今日のセール品を認識しているから、店頭価格との乖離に不満が出るのは当然だ。

「全く、党ドクトリンのアルゴリズムも、もう末期だな。半ば公然と解読されてるんじゃ、そりゃ機能不全も起こすさ」

父さんが溜息をつく。俺の視界の端で、店の位置情報ビーコンが顧客の動線を捕捉している。このデータに基づいて棚割りを最適化するはずのシステムも、ここ数ヶ月は更新されていない。最新の薄型テレビの隣に、ブラウン管テレビが展示されたままなのもそのせいだ。

「健太くん、このMDラジカセ、動かないんだけど」

高齢の女性客が、手に持った古いMDラジカセを差し出してきた。「平成エミュ」の文化様式に合わせて、わざわざレトロ家電を買い求める層は一定数いる。だが、展示品は機能しないことも多い。

「申し訳ありません。そちらは展示用でして……」

顧客の不満をかわしながら、俺は店内のゲームセンターを通り過ぎる。ガラス張りの向こうには、色とりどりの筐体が並び、きらびやかなメダルが積み上げられている。純粋にゲームを楽しむために使われるメダルは、この不確かな世界で、ある種の確かな手触りを持つ。ブロックチェーン投票で価格を決められない商品があるこの店で、メダルだけは確かな価値を示しているように見えた。

店舗の隅、滅多に使われることのない公衆電話の前で、俺は足を止めた。父さんが生きていた頃、よくここから実家に電話をかけていたのを思い出す。あの頃は、5分間の総理大臣なんて馬鹿げたシステムも、得体の知れない「党」のアルゴリズムも、なかった。もっとシンプルに、世界は動いていた。

俺は再び、価格改定リクエストの「未承認」アイコンを眺める。内閣ユニットの合意形成、その基礎となるブロックチェーン投票のハッシュは、今日も無数のノードを彷徨い、有効な署名を得られないまま漂っているのだろう。この途方もないシステムが、たった一つの家電の価格を変えることすらできずにいる。働かずとも暮らせる世界で、俺たちはこの「平成」をエミュレートする生活を維持するためだけに、奇妙な遅延に苛まれている。

今日のセールは、結局見送りになるだろう。父さんの言う通り、この停滞はもう末期なのだ。静かに、しかし確実に、歯車は摩耗し、世界は軋みを上げている。そして俺は、その軋みの中で、今日も商品を並べ続けるしかないのだ。

ふと、公衆電話の受話器が、どこか懐かしい姿でそこにあるのに気づいた。それは、どんなアルゴリズムにも縛られず、ただ「繋がる」ためにそこにある、純粋な形をしていた。この不確かな時代に、確かなものなど何もないと思っていたが、その歪みの向こうに、ささやかながら、揺るがない存在を見出したような気がした。