磁気の朝、手首にひとつ

──平成0x29A年04月17日 07:40

朝の改札口は、いつだって少しだけ湿っている。

地下通路から吹き上がる風が運んでくるのは、前の晩に降った雨の名残と、どこかの換気口から漏れる揚げ物の匂い。俺は左手に磁気定期券を握ったまま、自動改札の前で立ち止まった。

通らない。

オレンジ色のランプが点滅して、バーが閉じたまま動かない。後ろに並んでいたスーツの男がため息をついて隣のゲートに移っていく。

「磁気が弱ってんじゃないの。また手首で通しなさいよ」

右耳のイヤピースから、叔母の声がする。梶原つね。享年六十一。脳動脈瘤破裂。俺が高校を出る年に倒れて、翌朝にはもうエージェントとしてこっちに来ていた。生前より口が達者になった気がするのは、気のせいだと信じたい。

「生体認証は混んでるときに使うと後ろが詰まるんだよ」

「あんたの後ろ、もう誰もいないでしょ」

振り返ると確かに誰もいなかった。七時四十分。通勤ラッシュの谷間だ。俺は諦めて右手首をゲートのパネルにかざした。静脈パターンを読んで、一拍の間。バーが開く。

生体認証で通ると履歴がいちいち内閣ユニットの流動ログに載る、というのは同僚の間では常識だった。別にやましいことはないが、気持ちのいいものでもない。

ホームに降りると、七時四十三分の各停がちょうど滑り込んできた。銀色の車体に「Suica」とも「ICOCA」ともつかないロゴが貼ってある。どっちだったか、もう誰も気にしていない。

ドアが開く。座席に座ると、左手首のナノ医療パッチが微かに温かくなった。血圧が上がっている、と判断したのだろう。パッチの縁が淡く青く光って、何かを注入した感触がある。

「降圧入ったわね。あんた朝ごはん食べてないでしょ」

「コンビニ寄る時間がなかった」

「寄りなさいよ。あたしが目覚まし三回鳴らしたのに」

叔母は正しい。だが正しさは腹を満たさない。

二駅先で降りて、駅ビルのコンビニに入った。おにぎりを二つ取ってレジに向かいかけたとき、奥のコピー機コーナーに見慣れた制服の背中が見えた。同じ整備班の後輩、宮田だ。

コピー機の画面を覗き込んで、何かの書類をスキャンしている。

「宮田、何やってんの」

「あ、梶原さん。おはようございます。これ、昨日の夜回ってきた政策変更リクエストなんすけど」

画面には、鉄道運行ダイヤの微修正案が映っていた。差分断片。始発を二分繰り上げるという、それだけの内容。だがフッターに記された党ドクトリン署名のハッシュ値が、ひと桁ずれている。

「署名、合ってないな」

「っすよね。俺も検算したんすけど、末尾がDじゃなくてEになってて。紙で出して班長に見せようと思って」

叔母が耳元で小さく笑った。「Dの十六進なんて誰でも間違えるわよ。あたしだって生きてたら間違える」

「叔母さん、生きてたら署名なんて見ないだろ」

宮田が怪訝な顔をしたので、俺は耳を指さして「エージェント」と言った。宮田は納得した顔で頷く。

コピー機がジー、と古い音を立てて紙を吐き出した。

「で、これ通すの?」

「通さないっすよ。不整合のまま承認したら、うちの班の責任になるじゃないですか」

「だな」

俺はおにぎりの会計を済ませ、宮田と並んで駅ビルを出た。四月の朝の光が白くて、少しまぶしい。左手首のパッチがもう一度温かくなったが、今度は光らなかった。

始発が二分早くなっても遅くなっても、俺たちの朝はたぶん変わらない。磁気定期券はそのうち読めなくなるし、コピー機はまた紙を詰まらせるし、叔母は俺の朝食を数え続ける。

署名のDとEの違いなんて、きっと来週には修正されて、また別の一桁がどこかでずれる。

そういうものだ。

俺は歩きながらおにぎりの封を切った。ツナマヨ。叔母が「鮭にしなさい」と言ったが、もう遅い。