帰らないボール、鳴らないベル
──平成0x29A年12月01日 22:20
ガコン、と鈍い音がして、7番レーンのボールリターンが沈黙した。またか。僕はため息をつき、カウンターの隅でスコアを眺めていたカップルに「調整しますので少々お待ちを」と声をかける。
『腰が入っとらんから、マシンもへそを曲げるんだ』
頭の中に、親父の声が響く。僕のパーソナル・エージェント、桐野治。三年前、心筋梗塞であっさり逝ったこの男は、生前と同じように口うるさい。
「僕の投げ方のせいじゃないよ。ここの設備が古いんだ」
『道具のせいにする奴は三流だ』
軽口を叩きながら、スタッフ用の通路を奥へ進む。バックヤードに続く分厚いドアに掌を押し当てると、生体認証のスキャナが赤い光を走らせた。何度かエラーが出て、ようやく低い解錠音。この認証システムも、最近ご機嫌斜めらしい。
機械油と埃の匂いが充満する空間。唸りを上げる巨大なメカの群れは、まるで太古のクジラの骸骨のようだ。7番レーンのユニットに近づき、詰まったボールをこじり出す。原因は、おそらく外だ。
休憩がてら、一度フロントに戻る。カウンターの脇には、プラスチックのバインダーに挟まれた紙の回覧板が置いてあった。町内会からのお知らせ。インクのかすれた文字で「物流用群ロボットの夜間試験走行ルート変更について」とある。ああ、これか。深夜、店の窓の外を音もなく滑っていくあの金属の群れ。ルート変更による微細な振動が、この老朽化した施設の平衡を乱しているんだろう。
その時、腰につけたプラスチックの塊が、短く震えた。ディスプレイには緑色のバックライトが灯り、数字が浮かび上がる。
『49106』
ポケベルだ。こんなものを使っているのは、今どき僕くらいなものだろう。懐古趣味、と親父は馬鹿にするけど。
「なんだこれ。イタズラか?」
『語呂合わせも知らんのか。……いや、待て。これは』
親父が何か言いかけた時、視界の右上に、青い半透明のウィンドウがポップアップした。
【第0x29A8C内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期は5分です】
いつものやつだ。キーボードを叩くみたいに指を動かすと、僕のレビューを待つ差分断片リストがずらりと並ぶ。農業ブロックの灌漑用水路のバルブ開閉アルゴリズムの更新。第12居住区の公園のベンチの素材変更。どうでもいい案件ばかりだ。
スクロールする指が、ふと止まる。
「第7娯楽地区における物流ロボットの最適化経路に関する緊急是正案」
これだ。まさに、回覧板にあったやつ。この振動問題の修正リクエスト。僕は迷わず「承認」にカーソルを合わせた。指を動かせば、この面倒なボール詰まりも少しはマシになるだろう。
『おい、翔』
親父の声が、やけに静かだった。
『そのポケベルの番号、もう一度見てみろ』
「49106だろ。意味わかんないって」
『……四月九日だ。お前の母さんの命日。……それから、十年と六日経った』
指が、止まった。僕の母は、僕が生まれてすぐに死んだ。親父は、その話をほとんどしなかった。ポケベルの送り主は、匿名化されたシステムID。でも、発信源は僕のパーソナル領域に極めて近い。……親父だ。今日、定期法定倫理検査から復帰したばかりの親父が、システムを潜って、僕に送ったんだ。
画面の中の「承認」ボタンが、ちかちかと点滅している。
この巨大で、どこか歪んだ世界。その片隅で、無骨な機械技師だった男が、三十年以上も前に死んだ妻を想って、古い数字の暗号を僕に送ってくる。その事実が、レーンの奥で止まったままのボールよりも、ずっと重く感じられた。
僕は、静かに「承認」のコマンドを実行した。やがて、遠くでガコン、と機械が息を吹き返す音がする。
「……父さん」
僕は、誰に言うでもなく呟いた。
「母さんに、会いたい?」
しばらくの沈黙。
『……ボール、戻ってきたぞ。仕事に戻れ』
その声は、少しだけ震えているように聞こえた。