ベランダのPS2と、押印の影
──平成0x29A年03月29日 13:50
平成0x29A年03月29日、13:50。
団地の廊下は、洗剤と昼のカレーの匂いが混ざっていた。私は三階の角、郵便受けの前でしゃがみ込み、回覧板の透明カバーを指で弾く。中の紙は感熱で、角が少し黒ずんでいる。
「今日中に“居住者更新”だってさ」
耳元で、父の声がした。私のエージェント——二年前に逝った父の人格が、古い口調のまま助言してくる。
「更新って、何回目だよ」
私はスマホのバーチャル役所を開く。画面は妙にiモードみたいなタブ構造で、上に“行政メニュー”、下にARの広告が流れている。『平成の新生活応援! MDプレーヤー修理サブスク』。誰が使うんだ、こんなの。
バーチャル役所は、玄関の鍵と同じ「居住権」まで見にくる。
《居住者更新:差分断片 1/3》
《申請者の実在照合:遺伝子ネットワーク》
通知が割り込んだ。
《遺伝子ネットワーク通知:一致率 99.12% → 98.47%(要確認)》
心臓が一拍遅れる。
「また下がったな」父が言う。「お前、最近ちゃんと寝てるか。体調で揺れるって聞いたぞ」
「揺れるなら、揺れる前提で作れよ」
私は深呼吸して、次へ進む。
《差分断片:自治会“町内会費”の徴収方法変更(紙→電子)/承認者:第0x4A91B内閣ユニット》
“紙→電子”。
団地の現実は、紙のままだ。私は回覧板の最後のページにある「会費受領欄」を見た。名字とハンコの列が、まるで年輪みたいに続いている。
「ハンコでやっとくか」父が言う。
「でも役所が電子って……」
「役所は役所。廊下は廊下だ」
私は玄関に戻り、靴箱の上の朱肉を開けた。乾きかけの匂い。引き出しの奥から、父の会社印を出す。金属の冷たさが指に残る。
リビングの隅には、PS2が置いてある。処分できずに、引っ越しのたび連れてきた。
父が生きていた頃、私が受験に失敗した夜、二人で『みんなのGOLF』をやった。フェアウェイのBGMと、テレビの熱の匂いだけが、妙に覚えている。
「そのまま置いとけ」父はよく言った。「“動くもの”が家にあると、家が止まらない」
私は回覧板の受領欄に、苗字を書いて、父のハンコを押した。
ぺたり、と鈍い音。印影が少し欠けた。
その瞬間、スマホが短く震える。
《バーチャル役所:居住者更新 追加手続き》
《押印画像の提出が検出されました。物理押印の存在を確認:撮影→送信》
「は?」
「見てるんだな……」父が低く言う。
私は半笑いで、欠けた印影を撮った。なぜか、シャッター音だけが昔のガラケーみたいに「カシャ」と鳴る。
送信。
《遺伝子ネットワーク通知:一致率 98.47% → 98.46%(軽微低下)》
「減ってるじゃん」
「お前の手が震えたからだ」父が言い切る。「泣くなよ」
泣いてない。私はそう言おうとして、喉が詰まった。
バーチャル役所の次の画面に、淡々と承認結果が出る。
《居住者更新:暫定承認(30日)》
《備考:次回より電子署名推奨。物理押印は文化的配慮として暫定許容》
文化的配慮。
廊下に出ると、隣の部屋の子どもが、タブレットで配信を流しながら、VHSのケースを積み木みたいに重ねていた。平成が混線したまま、ここだけ時間が粘っている。
私は回覧板を次の部屋のドアノブに掛ける。ハンコの朱肉の匂いが、指先から消えない。
「なあ」父が、少しだけ優しい声になった。「その印、欠けてるだろ。昔から欠けてた」
「知ってるよ」
「欠けてても、押せる。押したら、次に回る。お前もそうだ」
私はうなずく。遺伝子の一致率は下がり続けるかもしれない。バーチャル役所は、いつか“暫定許容”を撤回するかもしれない。
それでも、今日の印影は紙に残った。
次にこの列へハンコを押すのが、私じゃなくても。
ドアの向こうから、PS2の起動音がふっと脳裏に鳴って、私は一瞬だけ、居住権の更新じゃなく「家」を更新した気がした。