交差点の静止画

──平成0x29A年06月26日 18:20

管制センターの広大なディスプレイには、第3監視ブロックと第4居住ブロックの境界を示すラインが鮮やかなARで描かれている。
そのライン上で、午前中からずっと交通流が滞留している。原因は単純なシステムパッチの未適用。交通管制AIの学習ログから自動生成された最適化パッチだが、内閣ユニットの承認が下りないのだ。

「律、またか。先週からこの状態だぞ」
私の左耳に、父・彰のエージェントの声が響く。享年58、過労死した元警察官の父は、どんな時も冷静な分析を欠かさない。
「ええ、父さん。第0xAB7F内閣ユニットが『現行制度との差分断片』としてリクエストを受理したのは確認済みです。でも、承認には至ってない」

画面の右下には、複数の内閣ユニット間で交わされるハッシュ値のやり取りがリアルタイムで流れている。まるで、膨大な数の電子的な石が積み上げられ、それでも塔が完成しないかのような、もどかしい光景だ。党ドクトリンに基づく暗号アルゴリズム署名が必要なのは理解しているが、この何十年もの間、アルゴリズムは半ば公然と解読され、その検証プロセスは形骸化しているはずだ。

「無意味な遅延だ。どうせ、各ユニットのエージェント同士で、どうでもいい過去の因縁でも引っ張り出しているんだろう」
父の声は諦めを含んでいた。各ユニットの総理がランダムで5分務めるなんて制度も、この状況を加速させているようにしか思えない。

私は席を立ち、巡回用モビリティの充電ポートからウォークマンを取り出した。バッテリーインジケーターは良好で、充電式NiMHがきちんと機能していることを示す。今日の巡回は、滞留している物流用群ロボットのルートを手動で変更するのが主な仕事になる。
「ストリーミングで90年代のJ-POPを流すなんて、律も奇特だな」と父が言う。その指摘に苦笑する。これも『平成エミュ』の一環だ。古びたウォークマンの筐体に、最新の音源が流れ込む。このちぐはぐさが、妙に落ち着くのだ。

管制センターを出て、ブロック境界へと向かう。公共ARサインが、赤と青の点滅で「渋滞中」の注意を促しているが、誰も気にする様子はない。そのサインのフォントも、妙に古臭い。平成初期のゲームセンターで見たようなドット絵調だ。

現場に着くと、案の定、物流用群ロボットが整然と列を成し、微動だにせずにいた。リーダー機に接続し、AIの承認待ちになっているルート変更リクエストを無視して、手動で迂回ルートを指示する。ロボットたちは無言でその指示に従い、ゆっくりと動き出した。

空は薄暮に染まり、夕焼けのオレンジ色がARサインの赤に溶け込んでいく。システムパッチの承認は、今夜も下りないだろう。明日も、明後日も、きっと同じだ。人々は、働かずとも暮らせる世界で、敢えて平成をエミュレートし、この不毛な停滞を受け入れている。

父が「それでいいのか?」と問う。私は答えなかった。ただ、ウォークマンから流れる感傷的なメロディに耳を傾け、空に浮かぶ物流用群ロボットの列を眺めていた。この世界の歪みは、あまりにも日常に溶け込みすぎていて、もはや疑問を抱くことすら億劫なのだ。
いつか、この無意味な停滞が終わりを迎える日が来るのだろうか。
それとも、このまま何も変わらず、ただ時間だけが流れていくのだろうか。答えは誰にも分からない。たぶん、それがこの世界の「普通」なのだろう。