残量表示が消える朝
──平成0x29A年11月25日 09:50
旧川口エリアの水道局分室は、いつも薄暗い。窓は小さく、照明は省エネモードで半分しか点かない。俺の机の上には、今朝も山積みの用紙がある。
「水道メーター交換申請書、受理番号0x4A2B…」
俺、倉田誠は、この分室で水道インフラの維持管理業務に就いて三年になる。主な仕事は、老朽化した水道メーターの交換申請を処理し、現地確認のスケジュールを組むこと。地味だが、生活インフラを支える仕事だ。
耳の奥で、兄貴の声が響く。
『誠、その申請、バイオメトリック改札の認証ログと照合した?』
倉田剛。享年32。俺の実の兄で、元は同じ水道局の技術職員だった。過労で倒れて、そのまま帰らぬ人となった。今は俺のエージェントとして、毎日のように業務を補佐してくれる。
「ああ、やってる」
俺は端末を操作して、申請者の居住証明を確認する。バイオメトリック改札の通過記録が、申請住所と一致している。問題ない。
ふと、机の引き出しを開けると、古いウォークマンが転がっている。昨日、現地確認に行った家で住人に押し付けられたものだ。
「これ、もう聴けないから」と、その老人は言った。「でも捨てるのも忍びなくて」
俺は苦笑しながら受け取った。平成エミュの影響で、こういう旧規格の電子機器がまだ流通している。でも、メディアがない。カセットテープもMDも、もう手に入らない。
ウォークマンの隣には、CD-Rの束がある。これも別の現場で拾ったものだ。ラベルには「水質検査データ 平成0x287年」と手書きされている。でも、うちの端末にはCD-Rドライブがない。データを読み出すには、倉庫の奥にある旧型端末を引っ張り出さなければならない。
『誠、次の案件だ。リモート診療端末の水圧低下クレーム』
兄貴の声が、また響く。俺は画面を切り替える。
旧蕨エリアの診療所から、クレームが入っている。「リモート診療端末の滅菌ユニットに供給される水圧が不安定で、診療に支障が出ている」と。
俺は現地の配管図を表示する。この診療所は、築40年の雑居ビルの三階にある。配管は老朽化しているが、交換には党ドクトリンの承認が必要だ。
「また閣議待ちか…」
俺はため息をつく。党ドクトリンのアルゴリズムは、インフラ更新の優先順位を自動で決める。でも最近、その判定がおかしい。明らかに緊急性の高い案件が後回しにされ、どうでもいい公園の水飲み場が優先される。
『誠、この診療所、実は旧規格の「ポケベル回線」で通信してるんだ』
「マジかよ」
兄貴の言う通り、診療所の通信ログを見ると、ポケベルのプロトコルが使われている。平成エミュの影響で、通信規格が混在しているのだ。
俺は、暫定対応として、診療所に「手動減圧弁」の設置を提案する。アナログな方法だが、これなら党ドクトリンの承認を待たずに対処できる。
『それでいい。俺もそうしてた』
兄貴の声が、少し穏やかになる。
俺は提案書を作成し、診療所にメールを送る。すると、すぐに返信が来た。
「ありがとうございます。助かります」
シンプルな礼だが、少しだけ救われる。
ふと、ウォークマンを手に取る。電池残量表示は、とっくに消えている。でも、電源ボタンを押すと、かすかに赤いランプが点滅した。
まだ、生きてる。
『誠、お前もそろそろ休めよ』
兄貴の声が、優しく響く。
「ああ、もうすぐ」
俺は、ウォークマンを引き出しにしまい、次の申請書に目を通す。
水は、流れ続ける。俺も、流れに乗って、今日を生きる。