量子鍵と紙の重さ

──平成0x29A年 日時不明

俺が旧品川エリア第三倉庫区の夜間警備に就いて、もう八年になる。

今夜も変わらない。充電式NiMHを入れ替えた懐中電灯を腰に下げ、壁際のカレンダーに目をやる。紙製だ。月も日付も書いてない。ただ曜日だけが並んでいる。記録欠損が常態化してから、こういう様式が復権した。何月何日かは誰も確定できないが、月曜は月曜だ。それで充分らしい。

「今夜も静かだな」

声が、耳元で囁く。義兄の声だ。

倉田修一。享年三十九。警備会社の現場主任だった。心筋梗塞で倒れたのは、俺がまだこの仕事に就く前だ。姉の夫で、俺に警備のイロハを教えてくれた人。今は俺のエージェントとして、毎晩一緒に巡回している。

「ああ。静かすぎるくらいだ」

俺は応える。独り言のように見えるかもしれないが、構わない。この倉庫に他の人間はいない。

倉庫には量子乱数ロックが掛かっている。党ドクトリン署名を通した認証がなければ開かない、はずだった。だが最近、アルゴリズムの解読が進んで、非公式な鍵が出回っている。だから俺の仕事は、電子ロックの監視だけじゃない。物理的に、足で見回る。アナログの復権だ。

二階の通路を歩く。足音が響く。センサーダストが薄く舞っているのが、懐中電灯の光で見える。微細な粉末状の監視装置だ。動きを検知して、中央システムに報告する。はずだった。だがこれも、記録欠損の影響で、いつ動作しているのか、誰も正確には分からない。

「あれ、また増えてるな」

修一さんの声が、少し驚いた調子になる。

俺も気づいた。三号倉の入口に、紙の束が積まれている。昨夜はなかった。

近づいて確認する。手書きの台帳だ。入出庫記録。日付欄は空白。曜日だけが記されている。

「デジタル管理が信用できなくなったんだろうな」

修一さんが呟く。

「紙なら、少なくとも改竄の痕跡は残る」

俺は頷く。そうだ。党ドクトリン署名が信用できなくなった今、人々は紙に戻っている。物理的な重さ、手触り、インクの匂い。それが、唯一の証拠だ。

ふと、懐中電灯が明滅する。電池が切れかけている。俺は腰のポーチから予備を取り出す。充電式NiMH。何度も使える。平成の終わり頃に流行った規格だと、修一さんが教えてくれた。

電池を入れ替えていると、通信端末が震える。内閣ユニットからの通知だ。

『第0x4A2C7内閣ユニット・内閣総理大臣指名 対象:倉田健吾』

五分間だけ、俺が総理大臣になる。

「おっ、来たな」

修一さんが笑う。

俺は端末を開く。閣議リクエストが一件。『倉庫区物理巡回の義務化に関する差分承認』。

つまり、俺が今やっているような、足で見回る警備を、正式な制度にするかどうか、という話だ。

修一さんが補佐する。

「党ドクトリン署名は……ああ、通るな。アルゴリズム的には問題ない」

俺は紙の台帳に目をやる。誰かが、記録を残そうとしている。デジタルが壊れても、紙は残る。

「承認で」

俺は端末をタップする。党ドクトリン署名が自動生成され、承認が完了する。

五分が過ぎる。俺はまた、ただの夜間警備員に戻る。

「いい判断だったな」

修一さんが言う。

「そうかな」

俺は台帳を手に取る。紙の重さが、妙に心地いい。

センサーダストが、静かに舞い続けている。記録しているのか、していないのか、分からない。でも俺は、ここにいる。足で、目で、確かめている。

それでいいんだと、少しだけ思った。