受話器の熱で、署名を知る

──平成0x29A年06月04日 18:40

平成0x29A年06月04日、18:40。
団地の外廊下は夕飯の匂いでむっとして、階下の子どもがDSみたいな板端末を鳴らしながら走っていく。私は郵便受けの前で立ち止まり、古いガラケーの赤外線窓に、玄関ドア横のサブスク新聞のARタグをかざした。画面はiモードみたいな文字詰めで、「町内回覧:水圧低下の差分、審議中」と出る。

「また“差分”か」
耳元で、母の声がした。私のAI秘書――正確には、亡くなった母の人格を移植したエージェントだ。声の調子だけは生前と同じで、言葉尻だけが少しアルゴリズムっぽい。

『水のことはあなた、子どものころから気にするのよ。お風呂、溜めておいたら?』
「まだ18時台だよ」
『18時台でも、決まる時は決まるの』

決まる、というのはこの団地の給水ポンプのことじゃない。差分リクエストは、どこかの内閣ユニットで承認されるか、されないか。こっちはただ蛇口をひねるだけなのに、蛇口の向こうには署名がある。

エレベーターホールの脇、公衆電話がひとつだけ残っている。緑の筐体に「災害時優先」の札。みんな普段は使わないのに、壊されもしない。私は財布の奥から10円玉を探し、受話器を上げた。耳に当てると、プラスチックがぬるい。

『今どき公衆電話?』母が笑う。
「水圧の問い合わせ、アプリだと“審議中”しか出ない」
『番号、覚えてるの?』

団地の掲示板に貼られた「生活インフラ相談口」は、QRの横に、なぜか電話番号が大きく書いてある。私はそれを見ながらダイヤルを押した。プッシュ音がやけに平成で、胸の奥が少し落ち着く。

呼び出しの合間に、ポケットの小型ラジオがざらっと鳴った。深夜ラジオ用に買ったやつで、夕方でも勝手に録音予約が走る。昨夜の番組が、いま再生されている。

『……メール、ラジオネーム“水槽の王様”さん。差分が通らないって? まあ、党の気分次第だよね……』

党、という単語がふっと混ざる。誰の口から聞いても、輪郭だけがあって、中心がない。

やがて応答がつながった。人の声じゃない。
『第402ヘゲモニー期・生活インフラ差分窓口。要件を。』

「団地の水圧低下。回覧では審議中って」
『審議は並行処理中。署名待ち。』

受話器の向こうで、かすかなキーボード音。私は何気なく、受話器の側面に貼られた透明シールを見た。いつの間に貼られたのか、細い文字列と、四角いチェックサム。

『……あら』母の声が低くなる。『それ、署名の断片じゃない?』

窓口AIが続ける。
『市民側で署名アルゴリズムを補完する場合、当該公衆電話の筐体シールに記載の“党ドクトリン署名テンプレ”を参照。各戸の差分申請に貼付可能。』

「貼付、って……」
『近隣の申請を束ねることで承認確率が上がります。推奨。』

私は思わず受話器を握り直した。母のAI秘書が、息を吸うみたいな間を置く。

『わかっちゃったのね。隠すの、やめたのよ。末期って、そういうこと』

廊下の向こうで、隣の部屋のテレビが野球中継を流している。なのに画面の隅には「差分承認率:47%」みたいなテロップが出ているのが、扉の隙間からちらりと見えた。

「これ、みんな貼るの?」
『貼る人もいるし、貼らない人もいる。平成の町内会みたいに“回覧板”で回す人もいるわね』

受話器を置くと、公衆電話のコイン返却口がからんと鳴って、10円玉が戻ってきた。料金は取られていない。相談は無料、というより、こちらが作業員なのだ。

外に出ると、団地前の自動運転シャトルが停留所で待っていた。側面に「本日限定:水資源節約キャンペーン」のラッピング。乗り込む住人たちは、買い物袋と、回覧板みたいな薄い端末を抱えている。

シャトルのドアが閉まる音を聞きながら、私は公衆電話のシールを指でなぞった。透明の下の文字列は、もう“秘密”の書き方をしていない。

『あなた、貼る?』と母。
「……貼るよ。水、出ないの困るし」

私は自分の端末に、シールの文字列を手入力した。昔の暗証番号みたいに、ひとつずつ。
入力欄の下に、静かな通知が灯る。

【差分束ね申請:承認見込み +3.2%】

それだけ。

団地の外廊下に、深夜ラジオの録音がまだ小さく流れている。誰かの笑い声と、ノイズ。
私はそれを聞きながら、淡々と玄関の鍵を回した。今夜のお風呂が、いつも通り溜まるかどうかは、また別の五分に任せる。私の指先に残った受話器の熱だけが、やけに現実だった。