回覧板が通過する座標

──平成0x29A年 日時不明

 MOディスクを裏返すと、ラベルに祖父の字で「承認済リスト・四月分」と書いてある。太い油性マジック。几帳面な角ばった画数。あたしはそれを事務所のバックヤードにある光学ドライブに差し込んで、スマートグラスの右目にファイルツリーを浮かべた。

「奈津美、そのディスク、湿度管理してなかったでしょう」

左耳のイヤホンから祖母の声がする。亡くなって六年になる祖母・吉岡トシ子。生前は町内の文房具店を五十年やっていた人で、紙とインクの扱いにはうるさい。エージェントになっても変わらない。

「大丈夫、読めてるから」

 あたしの仕事は、第十六地区の生活協同組合——通称ナナロク生協——のバックヤードで、紙の回覧板を管理することだ。正確には、回覧板の位置情報ビーコンと中身の整合性を取ること。

 三ヶ月前、上から通達が降りてきた。内閣ユニット群の閣議決定で、政策変更リクエストの一部を紙媒体で回覧する手順が復活した。デジタル署名の改竄リスクが高まりすぎたから、だそうだ。ドクトリンのアルゴリズムが解読され始めているという噂は前から聞いていたけれど、その対策が「紙に戻す」というのは正直笑った。祖母は笑わなかった。

「紙は正しいよ。触ればわかるから」とだけ言った。

 バックヤードの棚には、ビーコン付きの回覧板が十二枚並んでいる。クリップボードにA4用紙を挟んだだけの素朴なもので、裏面に小さな位置情報チップが貼ってある。スマートグラスをかけると、各回覧板の現在地が右目のマップに光点で浮かぶ。七番が動いていない。第三棟の中村さん宅で三日止まっている。

「中村さん、また止めてるね」

「あの人は昔からそう。回覧板を読まずに冷蔵庫の横に立てかけるの」

 祖母の口調に懐かしさが混じる。中村さんの先代を知っているのだろう。あたしはガラケーを開いて中村さんに電話をかけようとしたが、スマートグラスの左隅にストリーミング広告が割り込んできて、画面が一瞬ちらついた。平成何年の仕様なのか、もうわからない。

 MOディスクの中身を確認する。四月分の承認済リスト。あたしの前任者——祖父が引退前に焼いたデータだ。祖父はまだ生きているからエージェントにはなれない。ただ施設に入っていて、もう喋らない。

 リストの末尾に、見慣れない行がある。

「ばあちゃん、これ何」

「……見せて」

 スマートグラスの画面をイヤホン経由で共有する。数秒の沈黙。

「署名がない。ドクトリン認証の欄が空欄」

「つまり?」

「承認されてないものが、承認済リストに入ってる」

 あたしはMOディスクのラベルをもう一度見た。祖父の字。几帳面な角ばった画数。油性マジックの匂い。

 七番の回覧板が動き出した。スマートグラスの光点が、中村さん宅からゆっくり隣の棟へ移動していく。紙は正しい、と祖母は言った。紙は正しい。では、この紙の上を三日間通過していったものは、何だったのか。

 ビーコンの光点を目で追いながら、あたしはドライブからMOディスクを抜いた。指先がわずかに湿っていた。湿度管理の問題ではなかった。