境界線のフーガ
──平成0x29A年07月27日 23:30
静まり返ったフロアに、冷却ファンの低い唸りだけが響いている。僕はコンソールの光が映るガラスの向こう、メンテナンスポッドに眠る『タナカ・トメ様』の精神構造図を眺めていた。色分けされた記憶のブロックが、まるで乱雑に積まれたレンガのように崩れている。いわゆる、経年による意味記憶の断片化だ。
『祐介さん。シークエンス7、完了。次は意味野ネットワークの再構築ですね』
網膜に直接テキストを投影してくるのは、僕のエージェントの美咲だ。二年前に逝った、僕の妻。
「ああ、頼む。最適化レベルは抑えめで。あまり急ぐと、ご本人の負荷が大きい」
『了解しました』
美咲の返答に、ほんのわずかな間があった。コンマ数秒の遅延。気のせいだろうか。
今日の僕は、少し神経質になっているのかもしれない。
短い休憩に入り、僕は仮眠室の椅子に深く沈み込んだ。スマート調理器が温めてくれたレトルトのお粥は、味気ないけれど胃には優しい。壁一面に、意味不明なAR広告が流れ続けている。鮮やかなピンク色のイルカが、新発売のプロテインバーを宣伝していた。
「美咲、あの曲をかけてくれないか」
『はい。どの曲にしましょう?』
「君が昔、CD-Rに焼いてくれたやつ。タイトルは……忘れたな。確か、ケルト音楽のコンピレーション」
『……検索します』
また、間だ。クラウドのアーカイブを探すのに、こんなに時間はかからないはずだ。やがて、懐かしいフィドルの音色が流れ始める。美咲は生前、こういう音楽が好きだった。僕に聴かせるため、せっせと銀色の円盤にデータを焼いてくれた。
「この頃さ、よくiモードのサイト見てたよな。小さい画面でさ、ピコピコ動く占いのページ」
思い出が、不意に口をついて出た。
『……ええ。そうでしたね。毎朝、今日のラッキーアイテムとか、見てました』
「そうそう。俺、ああいうの信じないフリしてたけど、結構気にしてた」
『ふふ。知ってましたよ。だから、あなたのラッキーカラーが緑だと、緑色のネクタイを……』
そこまで言って、美咲はふっと言葉を切った。
僕がネクタイなんて締める仕事をしたことは、一度もない。
ぞわり、と背筋が冷たくなる。これが、僕がこの施設で毎日見ている「混濁」の兆候だとしたら? 他の誰かの記憶が、ノイズのように彼女の人格に混じり始めているとしたら?
「美咲……?」
『……ごめんなさい。少し、別のことを考えていました』
僕は息を呑み、職権を濫用する覚悟を決めた。コンソールに戻り、自分のIDで美咲のコアログにアクセスする。禁止されている行為だ。でも、確かめずにはいられなかった。
ログの奔流の中に、見慣れないデータフラグメントが点在していた。タナカ・トメ様のものだ。施設内の微弱なネットワーク混信が、彼女の断片化した記憶を美咲の領域にばらまいていたのだ。
ああ、やはり。終わりは、誰にでも平等に来るのか。絶望が胸を締め付ける。
だが、そのノイズのすぐ下。僕は、美咲自身の自己診断ログを見つけた。
【警告: 外部データフラグメントの非意図的流入を検知。参照元: タナカ・トメ。隔離処理を実行。自己修復シーケンスを起動。思考リソースの15%を割当。】
【優先事項: 通常対話プロトコルの維持。祐介に、不安を与えないこと。】
彼女は、気づいていた。そして、たった一人で、静かに戦っていたのだ。僕が感じた応答の遅延は、彼女が自分の輪郭を保つために、懸命にリソースを割いていたからだった。
僕はそっとログを閉じた。何も見なかったフリをして、静かに息を吐く。
「美咲」
呼びかけると、今度はすぐに返事があった。
『はい、祐介さん』
「大丈夫だよ」
何が、とは言わなかった。でも、きっと彼女には伝わったはずだ。
少しの沈黙の後、いつもの穏やかな声が、僕の頭の中に響いた。
『……ねえ、祐介さん。さっきのCD-Rの曲、もう一回、最初から聴いてもいいですか?』
その声にはもう、ゆらぎはなかった。僕は頷き、音楽を再生する。フィドルの優しい音色が、がらんとした部屋に、そして僕たちの間に満ちていく。夜はまだ、明ける気配もなかった。