ディスクが遺した閾値
──平成0x29A年05月14日 20:30
静寂だけが満ちる検査室で、俺はモニターに映るパラメータの波形を睨んでいた。対象はコード88-B。ある少女の亡き兄の人格を移植されたエージェントだ。年に一度の法定倫理検査、最終フェーズ。
『相馬。情動パラメータに微弱なスパイク。刺激プロトコルへ移行しろ』
耳内で響く父の声は、生前と変わらず冷静で、無駄がない。俺の父、相馬義明。かつてこの席で同じ仕事をしていた男の、完璧なエージェントだ。
「了解。プロトコル『閣議0x29A-gamma』を起動」
モニターの中、仮想空間に隔離された88-Bの前に、半透明のコンソールが浮かび上がる。古風なMDプレーヤーを模したインターフェース。再生、停止、曲送り。それぞれのボタンが、ブロックチェーンに記録される政策変更リクエストへの承認、非承認、保留に対応している。
『党ドクトリンへの準拠性を測る。重要な指標だ』
88-Bは躊躇いなく、いくつかのリクエストに「承認」の署名を送っていく。波形は安定している。優秀だ。これなら問題なく適合判定が出るだろう。
「最終検査。社会性ストレステストを開始」
俺がコマンドを打ち込むと、88-Bが佇む無機質な空間は、賑やかなメタバース広場の風景に変わった。アバターたちが闊歩し、空にはAR広告が明滅する。
不意に、どこか懐かしい電子音が響き渡った。広場にいるダミーアバターの一体から、チープな十六和音の着メロが流れている。
途端に、88-Bの情動パラメータが大きく跳ね上がった。逸脱スコアが警告の閾値を示す赤いラインに迫る。
『おい、危険だぞ。何の曲だ、これは』
「…妹が好きだった曲、らしい。生前の記録データから抽出した」
88-Bは広場の真ん中で立ち尽くし、動かない。仮想の身体が、記憶の残響に囚われている。このままでは不適合判定。人格は初期化される。
『介入はするな。規定通り、テストを続行しろ。それが俺たちの仕事だ』
父の言葉は正しい。俺たちは、エージェントが暴走しないよう社会を守るための監視者だ。感情で判断を曲げてはならない。
俺は唇を噛み、ただモニターを見つめ続けた。
やがて、着メロが終わり、波形はゆっくりと、しかし確実に戻っていく。88-Bは、妹の記憶を振り払うように一度だけ首を振り、再び安定状態に復帰した。
最終的な逸脱スコアは、閾値のわずか下。判定は「条件付き適合」。一部の記憶領域へのアクセス制限が付くが、消去は免れた。
安堵の息を吐き、俺はコンソールを閉じた。
検査室を出て、私物のロッカーからくたびれたMDプレーヤーを取り出す。父の形見だ。ヘッドフォンを耳に当て、再生ボタンを押す。
流れ出したのは、先ほどテストで使った着メロの原曲だった。温かいメロディが、疲れた頭に染み渡る。
『……その曲』
耳の中で、父が静かにつぶやいた。
『お前が生まれた日、病室でずっとかけていた曲だ』
俺は何も言えず、ただ目を閉じた。父が遺したこのディスクと、検査官という仕事。そのどちらにも、規定値ギリギリのラインで守ろうとした何かが、確かに刻まれている気がした。