いつかの雨、五分の静寂
──平成0x29A年 日時不明
いつから降り始めた雨なのか、もう思い出せない。バックヤードの床に染みた黒いシミが、じわりと滲んで広がっていく。僕の頭の中は、夜勤明けのような気だるさで満たされていた。
「また開いたぞ、拓也」
耳元で、兄さんの声が静かに響く。視線を上げると、売り場とを隔てる自動ドアが、誰もいないのにゆっくりと開いて、そして閉じた。金属の擦れる鈍い音だけが、やけに残る。
『原因は、客が持ち込むビニール傘から滴る水滴によるセンサーの誤作動。湿度が閾値を超えている』
兄さんの分析はいつも的確だ。生前、インフラの保守をしていただけのことはある。店長は「いつものことだ」と気にも留めない。店のマニュアルには、フロッピーディスクを使った旧式の診断ツールでリセットしろ、なんて書いてあるらしいが、そのドライブがどこにあるのか誰も知らない。
僕はペットボトルの補充を続けながら、時折あらぬ方向を向いて明滅するAR広告をぼんやりと眺めていた。安売りの告知が、積まれた段ボールの角で歪んでいる。
ウィィン、ガタン。
またドアが開く。このドアは本来、僕らスタッフの手のひらによる生体認証でしか開かないはずだった。雨のせいで、システムの機嫌が悪い。
その時だ。視界の隅に、青いポップアップが点滅した。
【第0x8C3A内閣ユニットの臨時閣議が開始されます】
【あなたは内閣総理大臣に任命されました。任期は五分間です】
またか。僕の意識とは無関係に、網膜に議題リストが流れ込んでくる。どこかのブロックの街路樹の剪定基準とか、公共配給データのフォーマット変更とか。どうでもいい差分断片の羅列。
『待て、拓也。リストの三十七番目を見ろ』
兄さんの声に促され、僕は意識を集中させた。
【件名:第12生活インフラブロック・汎用自動ドア認証システムの湿気対策プロトコル更新リクエスト】
これだ。僕らが今、まさに直面している問題。
『リクエスト内容を解析。センサー感度の物理的補正パッチだ。旧式システム延命のための、ありふれた修正だな。党ドクトリンの署名検証も問題なく通るはずだ。承認しろ』
迷う理由はなかった。僕は網膜に表示された承認ボタンを、瞬きで選択する。
残り時間は、あと数秒。
【承認されました】
通知が消えた瞬間、バックヤードに静寂が訪れた。
あれだけ不規則に動いていたドアが、ピタリと沈黙している。
「お、拓也。ドア、直ったか?」
売り場から店長が顔を覗かせた。僕が何かしたとは、夢にも思っていないだろう。
「さあ…どうでしょう」
僕は曖昧に答えて、自分の左手を見つめた。ドアを開けるために、いつもセンサーにかざす、この手のひら。
さっきまで、この国のインフラをほんの少しだけ動かしていた手だ。その微かな感触だけが、妙に生々しく、僕の皮膚に残っていた。