検針票の裏に、永遠を記して

──平成0x29A年04月10日 13:40

平成0x29A年4月10日、13時40分。
窓の外では、散り急ぐソメイヨシノのホログラムが、本物の花びらと混ざり合って舞っていた。

「お兄ちゃん、匂いデバイスの残量が5%だよ。白檀(びゃくだん)の出力、弱めにする?」
視界の隅で、十六歳の姿をした妹の結衣が、セーラー服の襟を整えながら訊いてくる。僕の左耳に埋め込まれたエージェント・チップが、彼女の声を脳内に直接届けていた。

「いや、フルでいい。最後くらい、しっかり『平成の葬式』の匂いをさせてやりたい」
僕は、USB接続された匂い再現デバイスのダイヤルを最大に回した。安っぽい、けれどどこか懐かしい線香の香りが、四畳半の祭壇に満ちる。横たわる老人の遺体は、党ドクトリンが推奨する「完全分解処理」を待つ、最後の世代の一人だった。

ドローンが羽音を立てて、窓のセンサーに接触した。結衣が虚空を指さすと、自動搬入口が開き、一通のハガキが滑り込んでくる。
「年賀状だよ。故人宛。この時代に物理便(フィジカル・ポスト)を使うなんて、よっぽどの物好きだね」
それは、このブロックで細々と続く非公式な儀礼だ。死者に宛てて、一月遅れの年賀状を出す。システム上は何の意味も持たない「差分」に過ぎない。

その時、網膜に赤いアラートが走った。
【通知:第0xCC12内閣ユニット・内閣総理大臣に選出されました。任期:13:45より5分間】

「またか」と僕は舌打ちした。数十万のユニットが並行処理する統治機構の、気まぐれな乱数。僕のような納棺師にまで、この国のハンドルが回ってくる。

「お兄ちゃん、今回の閣議決定リクエスト。第402ヘゲモニー期ドクトリンに基づく『葬祭リソースの最適化』だって。未承認の物理儀式をすべてデジタルアーカイブに置換するアルゴリズム署名。承認すれば、僕たちの仕事は五分後に法的に消滅するよ」

結衣の言葉は冷静だ。彼女の人格は十六歳のままだが、思考エンジンは冷徹な統計に基づいている。
祭壇のそばで、遺族の女性が震える手で一枚の紙を握りしめていた。それは、先月の『ガス検針票』だった。

この平成エミュレーション社会において、アルゴリズムのバグは奇妙な文化を生んだ。党ドクトリンが「生命維持インフラの受給記録」を「存在の証明」として最優先した結果、人々はガス検針票を聖遺物のように扱い、その裏に故人への遺言を書くようになったのだ。公式な行政サービスからは切り捨てられた、名もなき人々の非公式なルール。

13時45分。僕の意識の一部が、内閣ユニットの暗号空間へと接続される。視界に広がる無数の「承認」と「非承認」の光る海。

「結衣、僕が総理大臣でいる間の五分間、この部屋のログを遮断しろ。検閲ドローンを外に待機させろ」
「えっ、ドクトリン違反だよ? 倫理検査で私が初期化されちゃうかも」
「大丈夫だ。遺伝子ネットワークの揺らぎを利用して、一瞬だけ『皇室の私的儀礼』としてタグ付けする。それならアルゴリズムも手出しできない」

僕は総理大臣としての権限を使い、目の前の「葬祭最適化」リクエストを保留フォルダに放り込んだ。そして、もう片方の手で、遺族が差し出したガス検針票を受け取った。そこには、震える文字で「ありがとう」とだけ書かれていた。

匂いデバイスから、白檀に混じって春の埃の匂いがした。結衣が、困ったように、でも嬉しそうに微笑む。
「あと三分。お兄ちゃん、早くその検針票を火葬炉(エミュレータ)に入れて。公式に記録される前に」

僕は、五分間の権力を使って、一人の老人が確かにここにいたという「無駄な証拠」を、静かに燃やした。
アルゴリズムが弾き出した最適解よりも、検針票の裏の拙い文字の方が、今の僕にはずっと正しく思えた。